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一週遅れの映画評:『マリー・ミー』未編集の世界で生きていく。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『マリー・ミー』です。

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 あのね、自分でもよくわからないんですけど……。
 
 お話自体は、そうねザックリ言うと、めちゃくちゃ人気の女性ミュージシャンがいます。彼女は同じく大人気の男性ミュージシャンと結婚する予定で、それをライブで大々的に発表する予定でした。ところがそのライブで発表直前、その男性ミュージシャンが彼女の付き人と浮気してるのが発覚。
 自暴自棄になった彼女はその会場にいた、ごく普通のというかややダサい感じの数学教師(バツイチ子持ち)を指差し「あなたと結婚します!」と宣言してしまった。突然の事態に戸惑うも数学教師はそれを快諾し、初対面の世界的女性ミュージシャンと一般人のややダサ数学教師は本当に結婚してしまいました。
 
 っていうあらすじから、まぁ大体あるじゃん規定ルートが。女の方は最初ほとんど当てつけ込みの暴走で結婚して、数ヶ月で別れるつもりだったけど、徐々にその数学教師の朴訥さに惹かれていく。一方で男は自分とは違う世界にいる女性ミュージシャンに振り回されるけど、段々と彼女の本質を知っていくなかで本当に好きになってしまう。
 そこに浮気してた男性ミュージシャンが「僕がバカだった、反省してる。やりなおそう」とか言って再登場。揺れる女性ミュージシャン、身を引こうとする数学教師……そしてその結末は?いやまぁ「結末は?」って言ってもそこは概ね2パターンじゃないですか、女独り身ルートか数学教師とめでたしめでたルートか……よりを戻す?無い無い。
 そういう教科書的というかお約束的な展開は普通に思いつくわけですよ。そしてこの『マリー・ミー』、まじでそのまんま
 
 でね、この映画評で何回か言ってるけど、私は「新しいもの」が見たくて新作映画を見に行ってるわけですよ。だからこういう「知ってる」タイプの話には基本的に冷たい態度になっちゃうわけ。
 なのに、それなのに。
 
 あのねぇ『マリー・ミー』、結構面白かったのよ!
 
 いやもうマジで一週間考えたけど「私はこれのどこを面白いと感じたのか?」が全然わかんなくて、こうやって話す以上なんらかのそれらしい理由を言うべきだろうし、無理やりでっち上げることくらいたぶん出来るんですよ。でもなんというか「そうするのが嫌だな」と思うくらいには、『マリー・ミー』を良い作品だと思っていて。
 
 いや、いくつか思い当たる部分はあるの。数学教師なんだけどあらすじの説明で「ややダサ」って言ったのは理由があって。ほらこういうタイプの作品って対比関係を作るために「めちゃくちゃイケてるビッチとクソダサコミュ障童貞」みたいな図式になりがちだと思うんですよ。
 だけどこの数学教師はバツイチ子持ちだから、一度は結婚してるのがおかしくないぐらいには社会常識もあって、普通にスーツを着て身ぎれいにしてる。性根が真面目だから会話をして楽しい!って感じは無いけど、ちゃんと知的で落ち着いた会話ができて、それほど上手くはないけどユーモアを織り込んだコミュニケーションが取れる。何よりどんな相手にも真摯に対応しようとするのよ、そこがめちゃくちゃ良い教師なんだなぁってことが伝わってくる。だから「あー確かにこの人には魅力があるねぇ」と納得できるのね。
 
 一方で女の方も、多少アバンギャルドなところはあるけど、たぶん作中では30代前半くらいの設定だからちょっと落ち着いてんの。だから「破天荒女が一般人を振り回す!」みたいには全然ならなくて、数学教師相手にも「巻き込んでごめんね」「ホント申し訳ないけど、数ヶ月でいいからこの茶番に付き合って!」ぐらいの、まぁ無茶を言ってはいるんだけど「自分が無茶を言ってる」自覚はあるの。そこらへんで「あーまー……確かに安定して地味な生活に安定してしまう数学教師には、このぐらいの感じは悪くないのかもね」って見てるうちに思えてくる。
 
 だからこの作品って設定とあらすじから想起されるテンションよりも、ずっと落ち着いた印象で。それが「知ってるはずの物語なのに、なんか楽しく見れた」って感想に繋がっているのよね、きっと。
 
 で、そこに繋がっていくのが映像面なんだけど。この作品「スマホで撮られている」シーンがたくさん出てくる。それこそ最初のライブシーンとか数学教師に「あなたと結婚するわ!」て言うシーンとか、映画の画面中心にスマホが映って、その撮影してるスマホ画面を私たちは見ることになるわけ。
 そうやって画面が切り取られて「誰かがスマホを向けている出来事」と、切り取られない「普段の風景」で作品全体が構成されてるの。で、ここで考えなきゃいけないことは、スマホのカメラを向けて撮影する行為が意味するのって「その先に(思わず)撮りたくなる出来事」があるってことなんですよ。
 つまりカメラの先にあるのは「特別でレアな場面」なわけ。で、私たちは例えばTwitterとかTikTokとかに上げられるそれらの場面を見る、あるいは自撮で更新されたインスタグラムを見る。そうやってSNSで発信された情報から、相手のことをわかった気になるけど、それはやっぱり編集された「人物像」でしかない。
 加えて数学教師はSNSを一切やっていなくて……ほらTwitterに入り浸っていると「これが世間の声だ」と勘違いしそうになる時ってあるじゃん?そういう時って数学教師みたいなSNSをやってない人間のことが見えなくなっちゃってる。
 
 作品全体にある落ち着いた感じは、きっとそのことを言いたい。つまり派手でバカげた事態は「そういう場面をピックアップして編集したもの」で、撮られていない部分が本当は大半で、そういう時はもっとずっと落ち着いていて地味だけど穏やかな時間が流れている。だけど私たちの目に触れないそういった時間のことをついつい忘れてしまいそうになる。でも人の魅力ってものは、そういった何でもない時に現れることだってあるのよ、と(決して「そういう時間にしかない」と言ってるわけでもない、ってのも大事)。
 
 なんかあれねぇ、これが「なんか良かったー」ってなるのは私の老化かい?いやでも「よくあるストーリーに対して、その背後にある日常」という側面からそれをポジティブに描いたのは、ちょっと珍しいというか、独特の感覚があって良かったです。うん、想像よりも「変」な映画で面白かったです。

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 次回は『バブル』(Netflixにて視聴予定)評を予定しております。

 この話をしたツイキャスはこちらの16分ぐらいからです。


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