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一週遅れの映画評:『仮面ライダーリバイス バトルファミリア』悪魔との契約は、いつだって

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『仮面ライダーリバイス バトルファミリア』です。

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 一年ぐらい前のワクワク感は本物だったんですよ、『リバイス』の。50周年記念作品、シン仮面ライダーも控えてる、悪魔の力を借りて共闘する……で、まぁテレビ本編がもうすぐ終わりそうなところで、全体としての感想は「なんか苦労してんな」なんですよ。その理由がこの劇場版を見るとよくわかる感じがあったね。

 すっごくやりたいことはわかるんですよ。例えば今回、敵の変身するライダーが蛸・百足・サイの要素を持った「キメラ」なんですよね。リバイス本編はスタンプを使ってモードチェンジをするんだけど、基本1フォーム1生物を模していて。だからこの「3種類の生物が!」というのは劇場版の敵役としてちゃんと説得力がある。しかも蛸とか百足とか、演出がちゃんと気持ち悪くて大ボスとして説得力があって良いんです。
 そして今回の劇場版限定フォームが、主人公たち五十嵐家の家族3人、一輝、大二、さくらが混じって一人の仮面ライダーになる「仮面ライダーイガラシ」なんですよね。ここの対比とかはすごく好きで。
 つまり敵役は全然違う生物を無理矢理に合成した「キメラ」で、一方仮面ライダーイガラシは「家族」という遺伝的な共通点がある。ほら『リバイス』ってOPとかで二重螺旋構造のモチーフをよく出してくるじゃないですか、ここで「家族」に共通するものを精神性ではなく、生物として好む好まないに係わらず持ち合わせてるものを架け橋にして一緒に戦う……このアングルは一本芯が通っていてすごく良い。
テレビ版本編ではむしろ精神性だけで家族の絆をアピールしていて「これたぶんビジュアル決定時点からだいぶ話がそれてんな」って感じがあるんだけど、劇場版ではそこに筋を戻そうとしてる気配がある。
 そういった意味では今回の事件で巻き込まれた一般人のなかに妊婦さんがいて、その人を巡る話が大きく扱われているのも、その方向を見ているんだと思うんですよね。

 一方で今回の敵ボスはケイン・コスギが演じていて。そりゃあケイン・コスギがいるならアクションさせたいじゃん! だから生身での殺陣をクライマックスの戦闘直前にやりたい、わかるよわかる。すげーわかる。
でもさぁ「生身での戦闘」が映えるのってやっぱタイマンなんですよね、だから一輝とサシで殴り合う。しこたまやり合った後に、そこからお互いに変身して最終局面へ! かっこいい、かっこいいよ。それは認める。だけど「イガラシ」は? 仮面ライダーイガラシはどうしたよ? さっきした私の「このアングルは一本芯が通っていてすごく良い」発言を撤回するしかなくない?

 それとか本編だと「家族の絆」を中心に据えていて、迷う大二とそれをなんとかしたい一輝とか、末っ子の妹として「守られる」側であったさくらの成長とか、情けない父親には過去が、とか従来の家族像のイメージに対して正面から扱いながら「リバイスとしての回答」をしようと苦心してる感じはあるんです。ただそこでどうしてもサブに回ってしまうお母さんが「ステレオタイプな母親」像から一歩も出れてなくて、「人間の中に悪魔が」みたいな部分が根底にあるはずのリバイスの中ですごくつまんない存在になってる
劇場版はたぶんそれを自覚はしていて、大型バスを運転させたり、妊婦さんについてるのが男の子だったりで、従来の母親イメージから離れようとはしているんだけど……だけど、あの、子どもたちが苦しんでるの見ていきなり凄いパワーを発揮するのはなんなんですかね。「母は強し」をやるとしても、説明無しの超能力めいたスーパーパワーはよくわかんねぇ。嘘でもいいからせめて、せめて何か理由をくださいよぉ! どんな無茶苦茶でもいいから、こっちは劇場版ライダーのそういうとこは慣れてるから、なにか理屈をつけてくれれば「まぁそういうものってことで」と飲み込めるんですよ。だけど無からは無理。

 あとジョージ狩崎の悪魔とか、デッドマンズがふたたびあの格好で、とか面白そうなポイントはある。だけどそれが全部消化不良というか……見せたいもの、やりたことを片っ端から詰め込めるだけ詰め込んで、そこで力尽きているんですよね。
それはたぶんテレビ本編の持ってる問題と同じなんですよ。

 50周年だ! というのもそうだし、「テーマは人間の中から生まれる悪魔!」というのは、いくらでも面白いことができる設定だと思うんです。特に初期の「家族」がものすごく表面的に取り繕ってるだけの気配(ほんとこの部分、気配だけで終わったな!)とか、信頼できない相手=悪魔とどう付き合うかってヒリヒリ感(バイスを危険物として扱いきれなくて、軟化させたね)とか、やりたいことを入り口だけは作ってあるのに、入り口作ることに力を入れすぎて上手く掘り進められなかった……そういう作品として着地してしまうだろうなぁ、あと本編残り数話しかないのを考えるとそう思ってしまいますね。

 悪魔と契約するのは、やっぱり難しかった。総じて『リバイス』はそんな作品でした。
 いやマジで「期待」と「面白くなりそうな要素」に関しては、歴代でも一番だったと思うんですよ。本当に。

 そういった意味では本編、アギレラ(はな)とさくら周りの話がかなり良かったのは救いだったかな……『セイバー』で蓮とデザストの話が良かったみたいな感じで。

 ……映画の話ほとんどしてねぇなw
えっとストーリーとして良かった部分をあげるなら、ケイン・コスギが演じてる敵がギフからスタンプを貰って、世界の暗部で少しでも人類が救われるように暗躍してたけれど。って話なんですよ、それで「だけど人類は愚かなままだ!」みたいな結論に至っていて。
でもここで描かれてるのは「救いたいと思ってやった行動が、実は大して役立ってなかったね」ということで、彼自身もその愚かさの一部というか強大な暴力を行使できてしまうことで、よりその愚かさを加速させている。
 それに対して市井の人たちはお互いに協力して自力での脱出を達成する。ひとりの強大な力よりも、無力な人々が寄り添ったときの強さを前面に押し出しているのは「誰でも心に悪魔を飼っている」「仮面ライダーに悪魔の力で変身する」というのを合わせると、「人は誰でも仮面ライダーになれる」というメッセージとして50周年を迎えるなかで発するのは、好きなところでした。
 たぶんこれテレビ本編の最後にバイスたち悪魔がどうなるか? って部分にも関わってくる気がします。

 ごめん、『ドンブラザーズ』の方は話す余裕ないわ。えっと、面白かったです。

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 次回は『今夜、世界からこの恋が消えても』評を予定しております。

 この話をしたツイキャスはこちらの16分ぐらいからです。


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