一週遅れの映画評:『バブル』跳ぶために、壊されるもの。
なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。
今回は『バブル』です。
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たぶんこれ前情報ゼロで見たとしたら「原作:レベル5かな?」と勘違いしたと思うんですよ。
と、いうのも作品の中心となるアクションシーンがパルクールなんですけど、これがねぇいまいちパッとしないんですよ。今期『おにぱん』てアニメの1話でパルクールシーンが出てくるのですが、正直そっちのほうが面白い。結構な鳴り物入りで公開された『バブル』と、『おはスタ』内の1コーナーとして展開されてる『おにぱん』を比較して「あれ……?アクションシーン、おにぱんの方が面白……い?」みたいになるのって(別に『おにぱん』を舐めてるわけじゃないけど)ちょっと問題だとは思うんです。
たぶんその根底にあるものってパルクールは「生きている街」で行われることに意味があって、こう普通に生活している道路とか階段とか壁によって私たちの動きって制限されるわけですよね。都市の構造が人間の通過可能域を決めている、パルクールはそこに別の可能性「あそこを跳んでここを蹴って、あの隙間から落ちて受け身をとれば行ける」、そうやって想像力と身体能力で都市機能をハックしてるわけですよ。それがまずパルクールを見ていて面白いところで、さらにそこへ現在進行形で生活してる人間がいる不確定さがある。
私は『おにぱん』1話のパルクールシーンで路地裏を走ってるとき急にドアが開いておばあちゃんが出てくる、それを寸でのところで「ごめんなさい!」って叫びながら躱すところがめちゃくちゃ良くて、ここにいま言った「生きてる街」でやる意味が出てるんですよね。
それに対して『バブル』でパルクールが行われる場所って半ば崩壊した誰も普通には生活していない都市で、しかもかなり水没している……つまり通常の道路とかが使用できない状態なわけで、そこで跳んだり跳ねたりして移動するのは、むしろその構造に要請されている、結果的にそうなってしまったから「そうしてる」動きなんですよ。だからそこには想像力で都市構造をハックするみたいなものってあまり無くて、動きが派手なだけで普通に道を歩くのとさして意味は変わらないっていうか……まぁ一応レース競技にはなってるのでハードル走みたいなもんなのかな?
ただ『バブル』で主人公とヒロインが二人ほぼ並走するようにパルクールしてるシーンが2回ぐらいあるんですけど、ここはちょっと面白かった……んだけど「ちょっと」なんですよね。で、その理由を考えたとき「私はこれを制作レベル5だ」って勘違いしそうになる部分が見えてきて。
前に『二ノ国』って作品の話をしたとき(一週遅れの映画評:『二ノ国』の事はどうしても悪く言えない。)、最初は車椅子だった主人公が異世界転移したら普通に歩いたり走ったりできるようになる。その部分を「もしこれがゲームだったらめちゃくちゃ面白いと思う」って評したのね。つまり車椅子って不便な状態を操作する(階段どころか小さな段差にすら難儀する)のから、ダッシュして柵を跳び越えて!みたいな自由な動きを操作できるようになったら絶対楽しいはずだ、ということを喋ったわけ。
で、その視点で『バブル』の二人パルクールシーンを見てみると、まぁたぶんPS5版『バブル』ですわね。最初のはチュートリアルみたいに「レバー右+△で壁を蹴ってジャンプ軌道を変えれるぞ!」とか「R2トリガーで”音を聴く”ことで、乗れる泡がわかるぞ!」な感じで、指示にしたがっていくとシュババババッとかっちょいいパルクールができる。今度後半はそういう操作になれたプレイヤーが難度の高いコースを操作して切り抜ける真横を、ヒロインが同じ動きで着いてくるときの相棒感とかシンクロ感とかあったらたぶん超面白い気がするんですよ。
ほらPS4と5で出た『スパイダーマン』のゲームで「街の中をスイング(紐だしてぐぃーん!って跳び回るやつ)して移動してるだけで楽しい」みたいな評判の良さがあったけど、あれとほぼ同じ話なわけですよ、これは。それでたぶんゲームの『バブル』にはテクニックが必要だけどすげぇショートカットできるルートとかがあって、通常プレイだと5分のコースを2分とかに短縮できるみたいな、まぁ最初に言った「パルクールが持つ想像力」をそこで表現できたりする。
だから「これゲームだったら面白いんじゃないかなぁ……」って感じはすごくあって、そこがねぇレベル5がやりがちな失敗ぽくて、勘違い止む無しというかw
そういった意味では、これ最後ヒロインが消えちゃうんですけど。こう「分かり合えたヒロインが、それでも失われてしまう」ってちょっとゼロ年代エロゲ感があって……えっとね、ゲームって”自分”でボタンを押して、”自分”で選択肢を選んで話が進んでいくわけじゃない?だからどんな終わりを迎えても「それは”自分”が選んだ結果だ」と飲み込まされる部分がある、それが物語の終わりが悲劇でも良いって受容のされ方を広げたと思ってるんだけど。その点においては「あ、レベル5じゃなくて(ていうか日野じゃなくて)虚淵玄だわ」感があるかな。
あとラストでヒロインが四肢欠損した上で溶けて消えていくんだけど、そこがこうかなり執拗に描かれていて……ちょっとニッチな、だけどジャンルとして存在してるぐらいはメジャーなフェチズムに「ダルマ」と「溶解」ってのがあるんだけど、ここには完全にそのエロ文脈がありましたね。ごめん、私は結構興奮した。四肢欠損好きなのよ。
ええと、そう、たぶん今回から私のnoteだけじゃなくて別のところにも載る予定だから最後に真面目な話をしておくと。
最後にヒロインが泡になって消えてしまって。そのヒロイン自体も泡の本体?から切り離された端末みたいなものだったり、泡になったヒロインは消えてしまうけれど、その存在は泡として拡散されて世界のいたるとこに宿る、という結末になっている。
これってめちゃくちゃミームの話で。ヒロインは遺伝子として何かを残すことはできないけど、それでも存在はそれとわからないような形で広がって継承されていく。それをポジティブに捉える終わりを迎えるわけ。
それって虚淵玄が『まどマギ』で賞取った時のコメントで「自分はアダルトゲームが出身で、そこで培ったものがこの作品に繋がっている」みたいなことを言ったこととか、あとはn次創作に対する許容みたいな話にも繋がってきていて、そこまで話を広げなくても『マギレコ』っていう外伝の展開とか、そういった「本人(泡の本体)にすらコントロールできない拡散」に対する意志表明、つまりミームとして広がることを前向きに許可するみたいなものがあらわれているように見えました。
それを念頭に置いての「重力は壊れた、好きに跳べ。」というキャッチコピーに込められたものが……作品の中だけに集約されずに、そこから解放された要素が広がっていくことを好意的に受け止めたい、という『バブル』に込められた想いが、ようやくわかるような気がしますね。
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次回は『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』評を予定しております。
この話をしたツイキャスはこちらの15分ぐらいからです。
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