一週遅れの映画評:『映画 ゆるキャン△』バイクの光はすべて星。
なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。
今回は『映画 ゆるキャン△』です。
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あのですね、一応こうやって毎週映画の話をするぞい!ってやってる以上、やっぱり作品を見る前には「かかってこいやぁ!」みたいな戦闘態勢になるわけですよ。120分1本勝負!チャージ3回、フリーエントリー、ノーオプションバトル!って感じで。それなのに、それなのにですよ!いいですか、私は名古屋で育ってしかもバイカーなんです。リンちゃんが上がってきた地下鉄桜通り線丸の内駅の階段が「あそこじゃん、ちょっといくとローソンある方の出口」って特定できるぐらいだし、「アラサー女がトライアンフ・スラクストン乗ってるのパネェな」ってのがかなりリアルな質感を持って迫ってくるわけさ。
こんなもん弱点特攻すぎる、完全に防御力ゼロでどう戦えっていうのよ!
と、いう言い訳をしたところで本題入りまーす。
えっとね作品全体を貫いているものが「ずっとあるもの」と「なくなっちゃうもの」の対比なんですよね。例えば冒頭キャンプの思い出でさ、富士山をバックに花火が上がるじゃないですか。当然、花火っていうのは一瞬だけ美しく輝いて消えていくもので、それに対して富士山っていうのはまぁ千年単位とかでそこにあるわけですよね。しかもそれが思い出の中だっていう。一瞬で消える花火もずっとある富士山も、同じく過去のひと時に梱包されて「いまはもうない」ものになっている。
高校っていう狭い箱のなかで一緒にすごしていた5人だけど、気づけばみんなバラバラの場所で暮らしていて。大垣が無理矢理リンに会いに来て飲んだのが3、4年ぶりとかで、きっと自分たちの関係は富士山みたいだと思っていたのに、もしかしたら花火なのかもしれねぇ……そしてこの風景も「いまはもうない」になってしまう、みたいな寂しさがそこにはあるわけですよ。
そこから大垣主導でキャンプ場を作る計画がはじまって、あのねぇたぶん寂しいのはみんな一緒なんですけど、それに大垣が一番自覚的で。リンは「自分はひとりでも大丈夫だし」って思い込んでるから寂しさに気づいてないし、イヌ子と恵那はいま失われようとしているのものが目の前にあるからその寂しさと混じっているし、なでしこは家のベランダから見える小さな富士山から「ずっとあるもの」だっていう感覚を受け取って誤魔化していて。だから一度東京へ行って戻ってきた、戻ってきたら誰もいねぇ!みたいになった大垣だけがその寂しさを自覚できるんですよね。
そうやってまたみんなで集まるようになって、その中でキャンプ場予定地に元からある建造物をどうするか?って話になるんですけど。本来それは巨大な鳥かごで、いまでは金属製の枠組みが残ってるだけなんですよね。最初は撤去するしかねぇなー、みたいな感じだったんだけど「そのまま残しておくのも良いんじゃない?」という方向に変わっていく。
5人が入っている鳥かごって昔の高校なんですよ。ここから出ていけばもっと自由に飛んでいけると思っていた、確かに大人になれば世界は広がって行くけども、それは同じ時間と空間を共有できていたこととトレードオフの関係になっている。というか本当は鳥かごは全然その体をなしていなくて自由に出入りできる場所で、でもそこに「場所」があるから一緒にいれた。じゃあそれが無くなってしまえば自分たちの関係も消えてしまうのか?
それに対して「そうだけど、そうじゃねぇ」というのがちゃんと描かれるんですよ。その鳥かごから夜空を見上げて、田舎で明かりも少ないからめちゃくちゃ星が見える。それをリンは「プラネタリウムみたいだ」って言うんですよね。ここが本物の星空を見ているはずなのに「プラネタリウム」って表現するのがすごく重要だと思っていて。
プラネタリウムって人工の星空なわけですよ。それが本物の星空と違うってそこに介入できる。具体的には「星座」を実線で描くことができることが大きな違いなんじゃないかな、と。実際の星と星の距離なんて何万光年と離れてたりする、だけどそこにプラネタリウムはイメージの線を引っ張って繋げることができる。
星なんてものはそれこそ富士山なんかよりも「ずっとあるもの」で、しかも物理的な距離なんて無視して線で繋げることができる。それは鳥かごから放たれた彼女たちがどれだけ離れていようとも、それでもなお繋がり合える可能性を示しているのですよね。
ただそこでもういっかいちゃぶ台を返されてしまう。キャンプ場予定地に遺跡が見つかってしまい計画が頓挫しそうになる。遺跡って要は昔の人が生きていた痕跡で、それはどれだけ頑張っても人間は「なくなっちゃうもの」で、時間が経てばそこにいたことを誰も伝えられずただただ痕跡だけが残る。それも一生懸命探してようやく見つかる程度のか細いものとして。
星々が繋がるように私たちも離れたって大丈夫だよね、をやったあとに「でもお前が死んだら終わりじゃね?」みたなメッセージを突き付けてくる。それもそのきっかけになったのは「リードを外された死にかけの犬」なわけですよ、繋がりはもう無いし、そのうち死んじゃうし。
ここでリンの存在に物語が回帰していくんです、もともとはソロ指向のめちゃくちゃ強いキャンパーだったリンへ。つまり繋がりあうことができるのはそこに「星」があるからだと、まず第一に「個」の力があって、それがあるからこそ「星座」が描ける。
リンの乗ってるトライアンフ・スラクストンたぶん1200Rだと思うんだけど、これかなりパワフルな車体ではありながらシングルシートなんですよ。うわーバイク知らん人に説明すんの面倒くせーwえっとねぇ、バイクって51cc以上からは二人乗りできるんですけど、排気量に加えてシート(座るところね)に二人乗り用の装備が必要なんです。それが無いと車検通らないか「ひとり乗り専用」で登録するしかない。でまぁ普通のバイクはその二人乗り用装備は標準でついてるというか手で掴めるベルトが一本ありゃあいいので大した話でもないんですが。ただスラクストンはノーマルだと完全ひとり乗り仕様のシングルシートなので誰も乗せらんない。
あの、めちゃくちゃ映画と関係ない話していい? このスラクストンはいわゆる「カフェレーサー」ってスタイルのバイクなんですよ。それでね、リンのお母さんもバイクに乗っていてそれが2期9話のエンドカードで出てくるんですけど、これがSRっていうまぁ最高といっても過言ではないバイク(※すぱちゃんはSRにずっと乗っていたためかなり偏向されています)で、しかもそれが「カフェレーサー」カスタムなんですよ!つまり違うバイクだけど同じ思想を持っているっていう……ん、ちょっと待って、関係あるようにする。
えーと、そう、リンのバイクは完全にひとり乗り用で。それで作品終盤スラクストンがトラブルを起こして走行不能になってしまう、そこで旧愛車のYAMAHAビーノが登場するのですが。さっきも言ったように二人乗りができるのは51ccからなので原付一種である、ええい原付一種はググれ!ビーノではやっぱりひとり乗り専用なわけです。
で、そのビーノでキャンプ場のオープンに向かい、そこで起きたトラブルを解消するためにキャンプ場へ来ようとしているお客さんを迎えに行く。今日のはじめらへんで言ったようにリンは「ひとりでも大丈夫だし」って面がすごく強い、それを象徴するように愛機は基本ひとり乗り専用だったりする。
だけどひとりで大丈夫だから、ソロでも生きていけるからこそ、道に迷うお客さんたちと繋がって/繋げていくことができる。まず初めに「個」がある。そして「個」で輝けるからこそ、それを繋げて星座を描くことができる。ソロ指向のリンという在り方が、むしろ繋がっていく可能性を開いていく。
これってそれぞれがバラバラになった状態からもう一度集まった彼女たちの強さを宣言してるのと同時に、テレビ版での「ソロキャンもマスキャンも、どっちも良いよね」って話からも繋がっていて。そこで最初から「個」として輝いていたリンの存在が、彼女たち5人を繋げていたことを改めて認識させているわけですよ。
それでね「でもお前が死んだら終わりじゃね?」問題に対してはさっき言った、祖父からリンが貰ったスラクストンがカフェレーサーで、リンの母親がSRのカフェカスタムに乗っていた、でも(少なくともテレビ版では)それを隠している。こう縦のラインで同じ精神性を持ったバイクが引き継がれていて、横に広がってく「星座」とはまた別の繋がりがここでは生まれている。
だから「でもお前が死んだら終わりじゃね?」には、次の人に引き継がれて繋がっていくものがある、しかも母親のようにそれを隠していても、そんなことは大した問題でもないように。それは失われた遺跡が発見されて、それでテーマパークが作られることでもう一度その存在を輝かせるのとも似ている。だから確かに「個」は「なくなっちゃうもの」だけど、それと同時に「ずっとあるもの」として、物質ではなく精神や意志の継承って可能性で答えている。
だからあれですよね。『ゆるキャン』の半分はバイクでできているんですよ!
びっくりするくらい、詭弁で、バイクを推す。BKB、ヒィーヤ。
でも「原付でどこまで行けるかな?」って企画はバイク関連メディアでコスられまくってるし、「世界一周できる」「富士山頂上までいける」という答えがもうすでに出てる以上、それは普通にボツだと思うよ、リンちゃん。
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次回は『モエカレはオレンジ色』評を予定しております。
この話をしたツイキャスはこちらの8分ぐらいからです。
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