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一週遅れの映画評:『劇場版アイカツプラネット!』アイは胸で光る惑星<プラネット>

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『劇場版アイカツプラネット!』です。

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 すっげぇ複雑なことやりつつ、でも「これがもしかしたら女児のスタンダードだとしたら、この先をもっと見たいな」って思えましたね『劇場版アイカツプラネット!』は。
 
 そもそも『アイカツプラネット!』の設定自体が多重構造になっているわけですよ。まず実写パートを生身の人間が演じて、そこから「アイカツプラネット」っていう仮想空間に入りアバターをまとって活動する……この時点でかなりエッジなことやってるのがわかるじゃないですか。要はVtuber中身問題を一歩先に行ってるというか、メタバースに対する態度として「現実の私」と「アバターの私」の価値が最初から等価に結ばれているんですよね。
 テレビ版では最初、めちゃくちゃ人気だったアバターの中身が行方不明になって、その代役として主人公がそのアバターを使って活動することになる。もちろんそこには「いまこのアバターに入っているのは、ニセモノだ」って自意識があるわけで、テレビ版は中盤くらいまでその統一というか「中身とアバターの主従について」の話をしてるんです。けど。
 
 「けど」なんですよね。その問題系は主人公にはあるけど、ほかのアイドルは最初っからかなり割り切ってるというか「アバターも中身のアイドルとして活躍」から「完全秘匿」までグラデーションを描いていて、実はその回答が最初から用意されているわけですよね。「好きにせい」ってw
 
 現実の人格とネットの人格って、まぁいまの10歳以下の子たちにとっては生まれた頃から存在しているものじゃないですか。デジタルネイティブの次世代みたいな、メタバースネイティブ?なんかダセェな、もうちょっと良いネーミングはそのうちメディアが用意すると思うんだけど、まぁそういう世代で。
 だからその2つの人格をどこまで統一するか/乖離させるか、ってことをもう生まれつき選択を迫られる。その中でこうやってグラデーションを持って提示する作品があるっていうのは、すごい面白いなとテレビ版を見てて思ったんですよね。あー、ただやっぱ後半にいくにつれアバターも中身も同じレベルでアイドル活動をはじめて、「生身オンリー/アバターオンリー」みたいな部分が無いとこは正直不満ではあるんですけど。
 
 で、ここから劇場版の話。
 テレビ版本編で登場したアイドルたちがファン感謝祭みたいな感じで一同に会する。そこにはファンへの感謝だけじゃなく、主人公から自分を支えてくれた仲間たちへの感謝もあるよ、ってイベントをすることになる。それを生配信するぞ! ってやつなんですよ。
 その中で仲間ひとりひとりの「やりたいこと」を主人公が手伝って恩返しをしていく……まぁその中のひとつに「丸太からノミとハンマーで熊の人形を削り出す」っていう、たぶん本当にやったらひたすら木材を削っていくだけな虚無の時間が発生するタイプのクソ配信なんだろうけどwそれでひとりづつ達成するたびに、一本の茎と葉っぱだけが描かれたキャンバスに、こう手形を押してもらって「みんなの手を花びらにして、お花を咲かせよう!」みたいなことをやってるのね。
 
 それで三人の手形を押したところで、現実パートから仮想パートに移動するんだけど、そのとき主人公が持ってるキャンバスにはすでに三人分の手形があるの。もちろんストーリーの進行としては当たり前なんだけど、厳密な話をすれば現実のキャンバスとアバターのキャンバスって別物ではあるじゃない。だからすでに手形があるのって「当然、だけど奇妙」な状態といえるワケですよ。
 さらには仮想空間で「やりたいこと」を手伝って、アバターがそのキャンバスに手形を押す。それまた三人分こなして現実に戻ってくると……リアルの方のキャンバスにも「当たり前ですけど?」みたいな感じで手形増えてるのよ!
 
 これめちゃくちゃサラッと作品内では流されているけども、かなりの異常さがあるわけじゃない。仮想空間ならまだデータだからなんとなく「現実のキャンバスを読み込んだ」みたいな可能性を考えれるけど、逆はヤバいじゃん。仮想空間から持ち出したら現実に影響を与えてるってどういうことよ? ってなるじゃない。
 だけどたぶんこれが『アイカツプラネット!』の目指してるものだと思もうんです。仮想と現実を連続性のある等価なものとして継ぐことを。その上で好きな向き合い方や好きな格好を自由にしていいんだよ、と。
 
 これを補強しているのが、この劇場版では現実パートでファッションショーをやるんですけど、そこでそれぞれのアイドルがいままでのキャラクターとは全然違うイメージの服をまとうって展開があるんですね。
 アイドルにとって(あるいは『アイカツ』というシリーズにとって)衣装/ファッションというのは重大な意味を持っていて、だから服を着替える(特にいままでのイメージから離れたものを)というのは、「私」という主体に大きく影響を与えることになる。アバターも同じで現実の「私」と密接に絡み合っているから、大きな影響を持っている。
 だけどその上で、それは変えることもできるし「私」と切り離すことだってできる。テレビ版の方で「お嬢様なんだけど仮想空間ではロックなキャラ」ってアイドルがいたりして。
それでこうやって「これは(衣装もアバターも)現実の身体ぐらい大事なものだよね」って言いながら、同時に「でももっと軽やかに自由にしてもいいんだよ」って語りかけている
 なんかそうやってこの『アイカツプラネット!』を見てるひとりひとりに、自分なりの生き方を、他とは違うあなただけの世界を作ることを応援していると思いましたね。それこそ自分だけの惑星(プラネット)を、確かな場所を作るようにと。
 
 同時上映の方は、えっとね、初代『アイカツ!』には熱心なファンが多いので、私なんかがどう思おうがビクともしないので言いますが正直「どうでもいい」です。いや、内容も良かったし、EDでカレンダーガールが流れたときは泣きましたけど。
 あのこれは私の性質として「新しいものがなによりも大事」で、今回の『アイカツ! 10th STORY ~未来へのSTARWAY~』はそういった意味で「これまでは思い出にして、先にいかなくちゃね」って話なわけですよ。だから、だからね、ここに対しては「どうでもいい」って言葉を投げることが私にとっての最大の賛辞なんです。だから『アイカツ!』に関してはこれで終わり!ね!

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 次回は『劇場版 仮面ライダーリバイス バトルファミリア/暴太郎戦隊ドンブラザーズ THE MOVIE 新・初恋ヒーロー』評を予定しております。

 この話をしたツイキャスはこちらの16分ぐらいからです。


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