見出し画像

一週遅れの映画評:『呪術廻戦0』切り離されるべき「古さ」に。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『呪術廻戦0』です。

画像1

※※※※※※※※※※※※※

 これ前日譚であるわけで、意図的に「古い」ことをやっているんですよ。だって「愛はもっとも歪な呪い」とか「約束っていうのは呪いをかけることと同じ」なんて言ってしまえば結構ありふれた解釈なわけじゃない?2021年の末に全力でそれをテーマにするのってちょっと退屈なんですよ、正直。
 だからこの作品は『呪術廻戦』に向けた「古いものの削ぎ落とし」として見るべきで、その視点からすればかなり練られた作品だと思う。で、そのラインから見ていくと禪院真希がなぜ乙骨の「恩人」なりえるのか?に説明がつくんですよ。

 禪院家っていう強烈な呪術師の家系、そこから脱却すること。そして可能ならばその伝統に寄りかかっている/縛られている禪院家の解体を目論んでいるのが真希っていうキャラクターで。それはつまり古い因習の破壊と、新たな価値体系の創造が彼女の願いになっている。

 それで……まぁめちゃくちゃネタバレしていくけど、別に原作も2017年連載だったしいいでしょ。

 乙骨に憑いている「里香」ちゃんの呪いは、乙骨の力によるもので。交通事故で死亡した里香ちゃんと離れたくないという想いから無意識に繰り出した呪縛によって里香ちゃんは「呪い」となっている。これって言ってしまえば「里香ちゃん」ていうアバターを使っているだけで、それは乙骨の内的なものなんですよね。だから乙骨がバ美肉するとVtuber里香ちゃんが誕生するっていう
 だから里香ちゃんがあれだけ「危険だ、危険だ」って言われているのに、対人間にはまぁぐっちゃぐちゃの重傷にはしちゃったけど殺してはいなかったり、都合2回の完全顕現においてもほぼ乙骨のコントロールに従う、あるいは少なくとも暴走はしていない(……ちょっと話がズレるけど『エヴァ』と絡めてこの映画を話すことに対して「声優に引っ張られてるだけじゃねーの?」って私は胡散臭く思っていて、その理由がそこらへんにある)っていうところからも「里香ちゃん」っていうのは完全な他者ではなくて、あくまでも自己(乙骨)の別側面というかやっぱアバター……っていうよりもスタンドに近い感じがある。
 それって内的なものを他者に委託して成り代わることで、自分の問題を客観視して解決を探るという構造にもなっている。だからそう見るといわゆるペルソナとかそういう話になって、まぁ真相が秘匿されてるから一見わからないけど整理するとそういった昔からある図式が出てくるわけですよね。

 そしてこの「内的なもの」を祓っていきたいという点で、乙骨と真希は共通しているわけです。つまり自分の無自覚な力によって生まれたVtuber里香ちゃんを卒業させたい乙骨と、血統というものにまとわりつくものを破壊したい真希。乙骨は無意識だし真希は血統だしで、どちらも自分では選択できなかった止むに止まれぬものをなんとかしたいと思っている。
 もっともこの時点で乙骨は「里香ちゃん」が自分の力によるものだとは気づいていないのだけど、私は無意識に振るった力を乙骨の直感的な部分は理解している(これだけの才能がある呪術師ならそのことを理解はしていなくても「無意識に」気づいているだろう、っていうのが私の読みね)。だから真希の強制された「血」という呪い(愛も約束も呪いなら、血統だって呪いよね)を祓いたいって願いに、強く感銘を受けるわけですよ。だって乙骨もその強制されてるに近い無意識の呪いを祓いたいのだから。
 そういったことが可能だ、可能じゃなくても「願ってもいい」。その上でそこに向かって邁進していく真希の姿は、確かに乙骨にとって救いのように映るわけで。だから彼女が「恩人」になるのですよ。それこそ蝶よりも花よりも貴重なぐらいに。

 とはいえ取り扱ってるテーマ自体はやっぱちょっと古い。だけど前日譚だからおそらくその「古い」には(乙骨と違って)自覚的だと思うんですよ。だからここから現在、つまり『呪術廻戦』へとつながるラインを引いてみると。

 虎杖はその内部に「宿儺」っていう呪いを持ってるわけですよね。この部分は乙骨と似ている。だけど宿儺は里香ちゃんと違ってコントロールがひどく困難なわけですよね。まぁ乙骨が完全に「内在していた力が漏れ出した」だけなのに対して、虎杖は「外にあったものが入り込んでしまった」わけだから、乙骨が内的な問題なのに対して虎杖は外的な問題
 だからひとつ前の世代は徹底して自分の力をどうコントロールするか?内省的な問を投げかけている。それに対していまの世代は外側にあったものを取り込んでしまったときそれとどう折り合いをつけていくか?つまり内面と外界との境界線、その線上の問題系をやろうとしている(ここらへん真希と伏黒の違いにも見られると思う)。

 これ私には、ネット掲示板ていうか5chというか2ch的な自己、つまりそこに書き込んでいるのは「おれら」であって自分がした書き込みじゃないものも匿名性によってひとつの集合体のように振る舞ってしまい、結果全てが内面的な問題に置換されるのに対して。
 いまのSNSにおけるバズ(炎上)として、固有名のあるひとつのアカウントが外的な視線によって時として過剰なほどに広がってしまう。それはバズでも炎上でもそうで(というかTwitterではRT数が増えると「見たくない反応を見ないように、このツイートに関する会話をミュートしませんか?」みたいなこと言い出すようになったぐらいだ)そういった本人にはコントロールできないものとどう折り合いをつけていくか?って話になってるように思いました。

 だから『呪術廻戦0』、かなり面白かったけどタイミングとしてはギリギリ間に合ってないっていうか……「面白いけど古いなぁ」というのがずっと頭に残る作品でしたね。それは作ってるほうだってわかってやってるとは思うんですよね。
 じゃあなきゃ「終わった」作品の主人公と同じ声なんかにさせないでしょw

※※※※※※※※※※※※※

 次回は『99.9-刑事専門弁護士-THE MOVIE』評を予定しております。

 この話をしたツイキャスはこちらの16分ぐらいからです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?