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一週遅れの映画評:『ルックバック』「真実」を選べ。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かして配信で喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『ルックバック』です。

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 まぁ内容についてはいまさら話すことなんて何もないでしょ。そもそも何年も前にWebで公開されて、あれだけ大反響だったんだから「とりあえず全員が読んでいる」って前提で問題ないわな。
 
 その上で、原作との違いってのは絶対に存在していて。それがねぇ、私にはこの作品で簡単に感動させないために行われているように見えたのね。もっというと「創作物」ってものに触れた時、単純にそこで描かれているものを受け止めていいのか? っていう疑問があって、しかもそれを「単純化すること」によって炙り出している感じがあるの。
 
 えっとね、これはもう冒頭部分から起きていることなんだけど。藤野が学級新聞に描いてる4コマ漫画ね、あれが映像化されるわけじゃない。もちろん4コマ漫画をそのまま映像になんてできるわけないんだから、そこでは漫画の前後を付け加えたり、コマとコマの間を埋める必要が絶対に出てくるわけですよ。
その時の藤野が描いてた漫画って、まぁものすごく単純なものだから膨らませる要素ってそれほどないわけ。とはいえ考えうる前提条件とかは複数存在している。そこに前後を補って映像にするっていうのは、なんというか一種の「答え」を提示することになる。で、そうやって提示されたものに私たちはある程度納得するし、きちんとしたプロジェクトとして正式な商業作品となって出てきたときに、それってまぁまぁ正当な「真実」になるわけよね。
 その藤野の4コマ漫画に対して各々が見た前後関係とか行間が確かにあったはずだけど、こうやって”映画『ルックバック』”として世に出されることで、その各々が持っていた4コマ漫画に付随する周辺は「真実」ではなくなってしまうわけですよ。
 
 ここから話は一気に飛ぶんだけど。終盤で描かれる悲劇でさ、犯人は「俺の作品をパクりやがったからだ」という動機を口にするわけじゃない? こんなのは世迷言も世迷言、病的な妄想だって判断してしまうのよ、私は。
 でもさ、この犯人の供述が「真実」じゃないなんて確証、本当はどこにも無いわけで。いや、私だってわかってるんですよ? そんな発言は発狂した人間の戯言なんだろうな。ってことぐらい。
だけどさ、んー、ここから考えとしては2つに分岐するんだけど。えっとね、私は深夜ラジオとか好きで、特に伊集院光のファンなんだけど、その中で「先週話したネタと同じ内容のハガキが別人から届くことがある」って話をしていたことがあるの。
 もちろんそれってパクりではあるんだけど、先週読んだハガキの内容をパクったってバレバレなわけだから、そこでパクっても何の意味も無いじゃない? しかもそのハガキを送ってきた人は、過去に何回も投稿してる。
そこでね、可能性のひとつとして。深夜ラジオなんて真夜中にウトウトしながら聞いてることだって当然あるじゃない。そこで夢うつつのまま聞いたラジオのネタを「面白いの思いついたぞ」って誤認することってあるんじゃねぇかな、って「まぁそういうことってあるよね」みたいな感じでラジオのトークとしては終わるんですよね。
 だからさ、こう何となく眺めていたインターネットで一瞬表示された絵から無自覚なまま影響を受けてる可能性って、たぶんそんな簡単に「無い」って断言できるもんじゃないと思うの。こうやって映画の批評をしている私の言葉だって、それこそ『ルックバック』なんてXでフォローしてる人がめちゃくちゃ語ってくれるわけですよ。そこから影響を受けてないハズが無いし、もう無意識に誰かの評をパクってるかもしれないじゃん。正直、毎週ちょっとビクビクはしてんのよ。流石に、流石に丸パクりとかは無いだろうけど、フレーズとかさ、知らず知らずのうちにやっちゃてないかな? って。
 
 まぁそっちの話はどうでもいいんだけどw ええと、通り魔犯の動機が妄想なのはいったん確定したとして、だけど犯人にとってはそれが「真実」じゃん。彼以外の全人類が「んなわけねーよ!」って言っても、彼にとってはあんまり関係ないわけですよ。彼の中にある「真実」は「美大生が俺の絵をパクった!」なの、だからといって殺しに来るのはまた一歩違う話ではあるんだけど。
 でもさ、私たちはその「真実」を否定する術を持たないわけですよ。だってついさっき私たちは「藤野の4コマ漫画に付け加えられた前後や行間」をひとつの「真実」として受け入れてしまったばかりなんだから。それを「真実」だと共有している人が多いか少ないかだけで、いつだって「んなわけねーよ!」って言われる可能性はある。
 特に私は昔から「自分はいつか頭がおかしくなって、道端で人を刺して回るに違いない」という確信があって。最近では加齢と体の状態も相まってだいぶ被害範囲は狭くなりそうですけどwそれでもその感覚は強くあるから、いつどこで「んなわけねーよ!」な「真実」に突き動かされてもおかしくないと思ってるんです。
 
 そっから延長した先に、藤野が千切った漫画の1コマが時間を越えたり、京本の描いた漫画がパラレルな世界へ届いたりしてしまうこととがあるとするなら。それだってやっぱり「んなわけねーよ!」だけど同時に「真実」なわけですよ。
 私たちは何らかの納得できたり腑に落ちる説明、というかストーリーを提示されるとそれを信じたくなってしまうし、それを正しいと思い込んでしまう。そうやって自分が理解できる範囲に「単純化」してしまう力が、物語には、創作物にはあるんじゃあねぇの? みたいな話をより強く、ここでは突き付けているんですよね。
 
 でもこうやって整理して読解することもひとつの「単純化」で、結局ここにある読み取りも「私が腑に落ちる」ものでしかないわけ。だからこんなものは簡単に反転する
 それは藤野が「描いても何も役に立たないのに…」っていう、悲しみの中でこぼれてしまった、ある種の藤野にとって「腑に落ちる」言葉でさえ、当たり前のように否定されるようにね。

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 次回は『先生の白い嘘』評を予定しております。

 この話をした配信はこちらの18分ぐらいからです。


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