見出し画像

一週遅れの映画評:『犬王』友有座には手を出すな!

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『犬王』です。

画像1

※※※※※※※※※※※※※

 もともと湯浅監督作品が好きなんです、特に『ピンポン』『DEVILMAN crybaby』が。どっちも激しいアクションシーンで身体が歪む、『ピンポン』だったら対ドラゴン戦でスマッシュした瞬間に「ぐぅん」と腕が伸びたり、『DEVILMAN』なんかはそもそも人間の体から悪魔の体へと変身するところとかに、明確な「歪む身体」が描かれている。
 
 現実とフィクションで同じだけの印象を与えるには? ってのは昔から考えているんですけど、えっとね、これは確か伊集院光が言ってた例えとして、現実の野球でバッターがホームラン性の長打を打ちました、そのままなら観客席に入ってホームランになるところを、外野の選手がフェンスを蹴って、こう三角跳びみたいにしてボールをキャッチした。このとき私は「うわー!すっごいジャンプだー!」って思うわけですよね。
 で、それをマンガにしたとする。もちろん演出や描き方にもよるんだけど、マンガの中でフェンスを蹴って大ジャンプからのキャッチが行われても「すごいプレイだなー」とは思っても「うわー!すっごいジャンプだー!」にはなかなかならない。でもそこでふくらはぎがムキムキッとなって溜めからの超ジャンプ! 上空から中継していたヘリコプターの傍まで達してホームランボールをバシィッ! とかいってキャッチしたら「うわー!すっごいジャンプだー!」って思える。まぁ『アストロ球団』の世界観なんですけど。
 
 現実で起こったらめちゃくちゃ凄いことなんだけど、フィクションの中だとそうでもない。それは現実だととても起こりえないようなことが、フィクションの中だとありえる。そういった非対称にどうしても見てる方は影響を受けてしまう
 そこで私は考えるわけですよ。つまり現実に近い表現で描く「客観性」と、そこで想起される感覚を描く「主観性」、そのどっちが正しいのか……いや、どっちが正解でどっちが間違いとかではないので、ちゃんと言うなら「私にとって正しいのか?」あるいはもっと単純に「どっちが好き?」ってことです、はい。
 
 ここで写実性とかって言わないのは、前者の客観的表現は「現象の写実」で後者の主観的表現を「エモーションの写実」だと思ってるからなんですよね。つまりどちらもその場で起きていることを正確に伝えようとはしている、ただその出来事を伝えてるか、その心の反応を伝えているかの差だよ、という考え方。
 それでまぁおわかりのように湯浅監督作品が好きで、そこで『ピンポン』を例に出してるあたり、私はその主観性の描き方というか「エモーションの写実」が好きなんですよ。これはなんというか、何かが起きたときそれを”起きた”と認識することで初めて私たちは見たり聞いたりできるのだから、エモーションが主で現象が従! という立場だからなんですけど。実際そこら辺の話は『アニクリ』のどれかに書いたことがあります。
 
 それで『犬王』。犬王は最初から体が歪んでいる、これをいました話に繋げるなら犬王の身体はずっと私に何かを訴えかけ続けている。それは『DEVILMAN』でデーモンがその姿に変身することで、その内側に宿った欲望なりなんなりを表現しているのと同じだったりする。
 だから作中でその犬王の体は「呪いによるもの」とされながら、同時に平家の怨念が何かを「伝えたい」と願っている影響だと言われるわけですよ。それは自分たちが確かに「居た」ことを、あ、ヤバい、我慢できない、だからあれですよね彼らは「平家の怨念がここにおんねん」つってる……ほらもうこんなん絶対言いたくなるんだからwこれ校正で切られるかどうかちょっと楽しみなんだけどw
 えっとなんだっけ、そうやって犬王の体には最初から「エモーションの写実」が宿っていて、それが昇華されることで歪んでいない身体へと変化していく。一方で友魚あるいは友一もしくは友有、彼は最終的に両の足を砕かれ、両腕も切り落とされ、最後には首を刎ねられてしまう。そのとき画面には川原の石に友有の怨念みたいのが憑りついてカサカサと動き出す、それこそ作品冒頭で出てきた平家蟹が再来しているように。
 
 このときの友有は足利の命によって自分たちが作り出した新しい平家の歌を演奏することが禁じられている。だからここで起きていることは犬王がその歪んだ身体によって訴えていたものが解放されて歪みが無くなっていくことの逆で、伝えたいこと歌いたいことがあるのにできない、だから手足が砕かれたり切断されたりして元の身体からは歪んでいってしまう
 そして犬王がすべての呪いを昇華させた最後に顔の歪みが消えたのと同じく、そうやって歌えないことの呪いが至る最後に友有は首を刎ねられて顔を失ってしまうわけですよね。
 
 犬王も犬王で友有のためと思い、新しい平家の歌で二度と舞わないことを約束してしまう。もちろんそれは不服で、だからラストシーンで犬王の姿は幼かったころの一番歪んでいた姿に戻る。そうやって互いに「あぁ歌いたい伝えたい」という気持ちを強く持ち寄って、この世ではない場所で再会し、そこで楽しく奏で踊る
 これは決して完全無欠のハッピーエンドなんかではないけれで、でも悲劇でもないのですよ。犬王が能を身につけたのも、友有が琵琶法師になったのも、どちらも呪いが根底にあって、だけどそれは「伝えたい」という動機でもあるから、真に素晴らしいと自分たちが思える表現をすることができた。
 
 私はこう「何か欠けてる方が創作者に向いてる」みたいなのは大嘘だと思っているから、これを単純に「呪いがあったから」って解釈はせずに、人は誰しも「何かを伝えたい」ひいては「自分はここに居るぞ!」と言いたい。それは全人類が持ち合わせてる「呪い」、完璧な肉体を持って生まれてくる人なんてどこにもいない(そもそも「完璧な肉体」なんて存在しない)のだから、誰もがちょっとずつ犬王なのだ……という「全人類、創作者」って話だと思いました
 だから『ピンポン』『DEVILMAN』があって、さらに『映像研には手を出すな!』を経ての新しい湯浅監督作品として『犬王』はきちんとその延長線上にあるものなのです。

※※※※※※※※※※※※※

 次回は、どっかの島に行こうかと思ったけど、自分が言いそうなことがありありと見えすぎるので、あえて外して『冬薔薇』評を予定しております。

 この話をしたツイキャスはこちらの16分ぐらいからです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?