一週遅れの映画評:『グッバイ、ドン・グリーズ!』この旅路は、ただひとつだけの。
なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。
今回は『グッバイ、ドン・グリーズ!』です。
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あのですね、たぶん「ここがダメだった」って話をしなきゃならんので先にちゃんと言っておきますけど、めちゃくちゃ良かった、めちゃくちゃ良かったんですよ『グッバイ、ドン・グリーズ!』。
あといつも通りネタバレは躊躇なくしていきますからね?よろしくおねがいしますね。
それがいつか?ってのは置いといて、人って最後には絶対に死ぬワケじゃないですか。やべぇこれ人生のネタバレだったわ。
でね、それでも「じゃあ明日死ぬ」と思って生活なんかできないんですよ、特に10代とかの若いうちはいつか必ずくる死は、それはそれで無限遠の「いつか」にしか思えない。そうやって生きてるうちに私たちは「誰か」の死をいっぱい見るわけですよね、有名人とか好きなアーティストとか、あるいは血縁とか近親者とか。そうやって段々「死」の手触りが質感を伴ってきて、徐々に無限遠にあった「いつか」が、明確な残り時間という存在を放つようになってくる。
誰かが死んだ時、その人が「なにを成したか?」で基本的には語られるんですけど、じゃあその死の間際で死んでしまう本人は何を思うか(あるいは思い出すか)って言うと「どう成したか?」だと思うんです。つまり他人からは「結果」で語られるけど、本人にとっては「過程」がメインで、実はその結果なんてオマケみたいなもので。少し言い方を変えれば、他人からすれば「目的地」が重視されるけど、当人にとってはその「旅路」のほうが貴重だということで。
よりもい……『宇宙よりも遠い場所』ってそういう話だったわけですよ(※書き起こし注釈:『ドングリーズ』と『よりもい』は監督とキャラデザが同じなため言及)。つまり南極という目的地だって大切だけれど、それ以上にその過程/旅路があることに意味があるというか、それを描くための全13話だったんですよね。
それは『ドングリーズ』も同じで、主人公の3人が「旅路」を手に入れる話になっていて。紛失したドローンを探す、っていう目的はあるんだけれども本当はそんなことどうでもいい、というか他人からしてみれば3人が「ドローンを回収した」という目的地しか確認できないけれど、当事者にだけはその「旅路」が手に入れられるものとして存在している。私たちは作品を通してその旅路に同行することで彼らと同じものを疑似体験することができる。
これがとても重要で。この3人のうち1人が、このドローンを探す1泊2日っていう短い、けれどかけがえのない旅を終えて、たぶん数か月後に亡くなってしまうんです。でね、残された2人がその後なにをするかっていうと、その亡くなった子が言っていた(そして過去にやり遂げた)「旅」を、同じ目的地を目指して「旅」をするんです。
それは私たち視聴者がドローンを探す旅を疑似体験したことと似ていて、もう会えない友達とそれでももっと何かを共有したいから「旅路」を重ねようとする行為なわけよ。
だけどそれは決して同じ「旅路」にはならない。目的地が同じでも、天候やら人やら時の運やらで、それはまったく別の「旅路」を描いてしまうんです。だからそこにあるのは「もっと一緒にいたかった」という切なる願いと同時に、「もう一緒にはいられない」という悲しみの再確認と受け入れることなんですね。だからまだ無限遠に「いつか」がある若い二人にはそれが絶対に必要なことで。そうやって亡くなった友達の存在を――「もういない」を強く認識することは翻って「たしかに”いた”」を強く強く刻む行為なわけですから――確かなものにするために。
でね、同じ場所を目指しても同じ旅には絶対にならない。それはさっきも言った通り、どうしても偶然に左右されるからなんですよ。だからこそ「旅路」っていうのが貴重になる、ドラクエⅢでアリアハンを出てゾーマを倒すのは同じでも、どんなパーティにするかザコとどのくらいエンカウントするかどんなタイミングで会心の一撃が出るか……つまりその過程はプレイヤーの数だけあって、それがゲームという体験の肝であるように、あらゆる旅路も唯一無二で、だから本人たちにとっては目的地よりも旅路のほうが重要になっていく。
それをもう少し分解するなら「偶然こそが大切なものを運んでくる」ということになるじゃないですか?旅路を輝かせるのが偶然によって生まれる差異ならば、その輝きの発生源には「偶然」があることになるんだから。
だからドングリーズの亡くなった1人が、残された2人とそもそも出会うことになったきっかけが作中で描かれるんですけど、それがめちゃくちゃに低確率な「偶然」によって生まれてるんですよ。こういうのが私はすごく好きで。
「偶然」っていう可能性に彩られる旅路が中心にあるこの作品において、その奇跡としかいいようのない「偶然」が根幹にあるのってめちゃくちゃ正しいんですよ!それぞれの旅路をぜんぶひっくるめた「死」という目的地へ向かわざるえない人生という旅のなかで、その大きな旅路を輝かせる「偶然」のことを、人はね、たぶん奇跡と呼ぶんです。
だからもの凄く一貫性のある「可能性に賭けること」への肯定が作品全体にあって、本当にね、私は大好きな映画でした。
……ただその、結構ね、どのキャラも自分の考えを(それも根っこにある思想的な部分を)長めのセリフで滔々と語るシーンが割と沢山あるんですよ。それは正確に心情を伝えるには向いてるんだけど、せっかくこうやって「可能性」を肯定している作品だったのなら、もっと言葉少なに、はっきり言えば「伝わらないことを恐れる」必要はなかったんじゃなかな?と思いました。
彼らの旅路にある偶然を信じるなら、作り手と受け手の間にある、作品が私たちに届いて受け取るまでのその過程を旅路を、そこに宿る偶然も信じて欲しかった。そこが作品の持ってる一貫性にキズをつけてしまっているようで、すごく残念だった。
でもそれ以外はマジで最高だった。本当に。
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次回は『DEEMO サクラノオト』評を予定しております。
この話をしたツイキャスはこちらの15分ぐらいからです。
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