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一週遅れの映画評:『ディア・エヴァン・ハンセン』生きている者の特権を。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『ディア・エヴァン・ハンセン』です。

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 ものすごい意地の悪いやり方で「自殺したらいかんな」ってことを伝えてくる映画でした。ほら、私は基本的に精神が「死にたい」の方に寄ってるタイプだから、作中で自殺した男の子にどちらかと言うと近いんですよ。だからその視点で見ちゃうんだけど……。

 んっとね、主人公の高校生エヴァン・ハンセンはそこそこヘビーな社交不安障害で学校に友達もいなくて(ひとり言葉をよく交わす相手はいるんだけど、そいつからは「親同士が友達なだけで、お前とはそうじゃない」とか言われちゃう)、結構しんどい生活をしてるんですよ。でエヴァンはセラピーの一環として「自分宛ての手紙を書く」ことになる。「親愛なるエヴァン・ハンセンへ。いまはとても辛いかもしれない。でも大丈夫、明日はきっと良くなる。もしかしたらゾーイ(これエヴァンの好きな子の名前ね)と話すことだってできるかもしれない」みたいな内容で。
 その手紙をプリントアウトしたところをコナーって男子生徒に見られてしまう。このコナーってのがいわゆる「ゴス系」っぽい感じで、しかもかなり暴力的で、こいつも学校内では孤立してんだけど、そのコナーってのがたまたまゾーイのお兄ちゃんでwその文面をみたコナーはブチ切れるわけですよ、「お前も俺をバカにしようとしてんのか!?」って。いやまぁそのキレ方が「あ、こいつも精神的になんらかのトラブルを抱えてるな」って感じなんだけど。それでエヴァンの手紙を持ってどこかに行ってしまう。
 
 その夜、コナーは自殺してしまうのね。

 唯一コナーが残していたのはポケットに折りたたまれて入っていた「親愛なるエヴァン・ハンセンへ(Dear Evan Hansen)」と書かれた手紙だけだった、と。

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 それはエヴァンがセラピーのために自分へ宛てて書いたものだったけど、本人たち以外にはどう見たってコナーからエヴァンに向けた遺書にしか見えないわけ。それで友達なんかひとりもいないと思っていた息子に、遺書を残すぐらい大切な友達がいた!と思った両親から「息子との思い出を聞かせて欲しい」って言われてしまうのよ。
 エヴァンは最初断ろうとするし、「いやその手紙は僕が書いたんです」と告白しようとするけど、話を期待する両親の圧に負けて「嘘の思い出話」を披露しちゃうのね。ただ社交不安障害を抱えてるエヴァンは「あの、えっと、その……」みたいに語りはじめるんだけど、だんだん興が乗ってきていつの間にその嘘の思い出を朗々と歌い上げるの。
 そう、これ実はミュージカル映画で至るところで登場人物が歌うのね。それでエヴァンはありもしないコナーとの思い出を高らかに歌う……ここがね、私「この作品、やべぇな」と思った部分で。
 
 ミュージカルにおいて歌うシーンて重要なんですよね、当然だけど。だから歌うことで事態が大きく動くし、感情を吐露される……つまり大抵は「真実」が述べられる場面であることが多いわけ。それなのにエヴァンは思いっきり美しい歌声で「嘘をつく」んですよ!しかも事態は好転するどころか、どんどん深みにはまっていく。
 コナーみたいに苦しんでいて、だけど誰にも助けを求めれなかった、声をあげることができなかった人のために社会事業団体を作ろう!とかなって、そこにエヴァンが代表としてスピーチさせられて、また歌が上手ぇもんだからwそのスピーチが感動的だっつってネットで大バズったり、それで「コナーの思い出のリンゴ園を再建しよう(この思い出もエヴァンの嘘)」とかいうキックスタートが開始したり。まぁもう規模がどうしようもないくらいに膨らんでいくわけです。
 それに加えてエヴァンはゾーイ、片思いしていたコナーの妹と付き合うことになったり、どんどん「あれは嘘でしたぁー!」とは言えない状況に追い込まれてしまう。

 でね、ここまでの流れで一番醜悪なのって「コナーの本心は結局1ミリもわかってない」ってことなの。エヴァンの作った嘘の「友人コナー」像があって、そこに「こんな人であって欲しい」という両親や妹の願望が合流して、そこに「苦しんでいた彼」を求める人々の欲望も相まって、そこには実像と離れた……というか離れているかどうかすらわからない「コナー」しかいないわけ。
 最初に言ったようにコナーっていわゆるゴス系の格好をしてる感じの子で、それって要は世間から理解されにくいものを好んでいたということなわけですよ。ゴス系はそういった「理解されにくい、されがたいもの」に対する偏重というか、理解されないままで居続けることを良しとする精神性って絶対にあると思うんですよね。
 だからコナーは自分の死後、そういった大衆にわかりやすいものとして自分という存在が歪められることにあの世でブチ切れてんじゃないかな?と……いやほんとこれすらも「勝手に解釈してる」だけだから、そういった耳障りの良い”物語”を求める人達となんら変わらないんだけど、それでもサブカル生まれの私としては、そういったコナーの心情が多少はわかると思いたんですけど。まぁね、それもやっぱり「私にとって都合の良い解釈」でしかないからね、絶対。

 だからそういった点で「自殺したらいかん」なという気持ちにさせられるという。勝手に自分という存在を歪められ、死を選んだ苦痛も思想も無かったことにされ、生き残ったクソどもが気持ちよくなるためだけのファックな物語に回収されてしまうことの恐ろしさ、惨めさ、つらさ。なんかそういったものを受け取りましたね。

 ……そしてね、その死んでまで利用されることを一番近くで見届けたエヴァンは、その怖さを身をもって知ったことで、なにかきっともう「大丈夫」なんじゃないのかな?と。そういった意味では死後勝手に解釈される醜悪さを描きながら、同時に生き残った側はどれだけ死者の尊厳を踏み躙ろうとも好きにしたらいいと、それが生きてることの特権であり、手段として許されている
 そんな醜くても生きる強靭さと、そうしても良いという許しが同時に描かれていたなぁ。そう思いました。

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 次回は『ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ』評を予定しております。

 この話をしたツイキャスはこちらの20分ぐらいからです。


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