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一週遅れの映画評:『私に天使が舞い降りた!プレシャス・フレンズ』勇気の意味を。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『私に天使が舞い降りた!プレシャス・フレンズ』です。

無題2

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 いや、まぁねこれは最初に口に出しておかないと自分の歯切れが悪くなってしまうから真っ先に言っておくのだけど。なんぼなんでも男性の姿を後退させることが徹底されてんなぁ! ほぼ冒頭の「娘たちの旅行のついでに、自分たちも温泉行く」みたいな話をしてるママンたちの会話で、それを一番感じたんだけど。
 とはいえ。とはいえですよ、これがそうやって初めにあることで「OK、これはそういう作品だもんね」って了解できたから、おかげでこっちのモードを切り替えれて以降は全然気にならなかったです。そしてこの話題は、それ以上発展させようがないので終わり。映画の話としても絡ませられないので、こうやって最初の入口として話すのが良いかなと思ったのでしました。
 
 で、今回の『わたてん』劇場版ではみゃー姉プラスひなたちゃんたちの6人が「修学旅行の練習旅行」って名目で、花ちゃんの祖母の家に2泊3日するって話なんですが。ここで「練習」って言葉を使っているのがすごく良くて、というのも彼女らの、特にそれぞれの関係性においてまだ「途上」であるということが前提にされてるわけですよね。つまり今の状態が完成形ではなく、これからどんどん変化し成長していく中で、本番に至る前の「練習」の時期であると。
 じゃじゃじゃじゃじゃあ本番が何を意味しているかってぇと、この作品ではひとつのロールモデルとして「花ちゃんのおばあちゃんとそのお友達」が提示されてるわけですよ。長い年月の間、かけがえのない友人として過ごしてきた二人として。
 まぁこのおばあちゃんズは割としょうもない駄洒落を口にするんですが、そこでお互いに「こういうことを言うようになったのは、あなたのせいだ」って言い合うのよ。つまりここでは既に自他の境界、「あなたとわたし」という区別すら曖昧になっている。言い換えればお互いの距離がほぼゼロにまで接近している、ということなんですね。それを一つの本番/ゴールとしている。
 
 それをふまえた上で6人の、というか2人×3組の距離感を見てみると、そこにはグラデーションがあるんですよ。
 ものすごくわかりやすいのが、お祭りで精霊流しみたいのを眺めてるときの描き方で。小依ちゃんと夏音ちゃんはしっかりと手を繋いでいる、ひなたちゃんと乃愛ちゃんは身体の接触はないものの互いに見つめ合う。一方でみゃー姉と花ちゃんは、相手の方を見ることはあってもタイミングが合わず目が合うことは無い
 そういった組み合わせごとに持っている距離感の差が、触れ合う/見つめ合う/すれ違うという関係によって描かれている。
 
 互いの状態をこの描写で再確認したところで、花ちゃんが大事にしていた髪飾りを紛失してしまう。それを探してみゃー姉は奔走するわけですけど、ここでね、ものすごくさらっと描かれているある場面に私はかなり感動したんですよ
 それは「的屋の人とか道行くに髪飾りを見なかったか尋ねている」シーンで、声もないしロングショットでほんの数秒だけの場面なんですけど……えっとね、みゃー姉は極度の人見知りで、花ちゃんたちを通じて多少はマシになっているけど。そうね、この作中でもプリンを売ってるお店の人に「あ、あの、ぷり、ふた、ふた」とかあわあわしてまともに物も買えないレベルなんですよ。
 そんな人物がですよ! 一般的な商売上のやり取りではない、イレギュラーな「落し物を見てないか?」なんて会話をするとか、知らない人に話しかけるなんて、めちゃくちゃ困難なことじゃないですか! そしてそれを可能にしてるのって、ひとえに「花ちゃんのため」だからなんですよね。プリンを買おうとしたのは花ちゃんの機嫌を取るためで、それは結局のところ自分のための行為なわけです。だから今まで通り人見知りが発動して上手くできない。
 けれども髪飾りを失くして悲しんでいる花ちゃんのためなら、ただの買い物よりもはるかに難しいコミュニケーションが取れる。そういう部分に私はシンプルに感動してしまうんですよね。
 
 これをね、みゃー姉の成長と捉えてもいいんだけど、私はそれよりもこの場面を「みゃー姉の自己認識が壊れた」と見たい。つまりもっともよいロールモデルである「花ちゃんのおばあちゃんと友達」の関係が「自他の境界がない」をゴールとしているわけですよね、この作品では。だからみゃー姉はここで「花ちゃんのために、自分だけなら絶対にしないこと」をしているというのを、「自分、という境界の外側にいる」と読み替えていいと思うんです
 そこでは自分という存在がほつれて、花ちゃんの悲しみと混ざりあってる。そうやって自他の境界が曖昧になることで、みゃー姉は普段なら絶対にできないことをやってみせる。
 
 それが髪飾りを見つけたあとの展開に繋がる。花ちゃんと見つめ合って、さらには見つけた髪飾りを「付けてください」と頼まれる。これさっき話した距離のグラデーションと似てるわけですよ。触れ合う/見つめ合う/すれ違う、これまではすれ違っていたふたりの距離が一気に「触れる」ところまで接近している
 ただ、残念なことに「触れ合う」まではいってないんですよね。ここで花ちゃんはみゃー姉に、自分がプレゼントした髪留めを使わないのか尋ねる。これってみゃー姉が花ちゃんに触れた(髪飾りを付けてあげた)ように、花ちゃんからもみゃー姉に触れたいというサインなわけですよ。
 
 作品の前半でね、みゃー姉はその髪留めを着けようか迷って、結局「失くしたら大変」とか言ってしまっちゃうんですよね……あのね、プレゼント、特に身につけるものをプレゼントされたら、その感謝を伝える一番の方法って「くれた人の前で身につけること」だと思うのよ
 それを「失くしたら大変」って理由でしまいこむのって、自分のことしか考えてないってことなんです。これは「自分という境界の内側」に閉じこもっている状態なんです、実は花ちゃんの方から距離を詰めようとしてくれてるのに、みゃー姉は自分のことしか考えてなくてその機会をふいにしている。そういうちょっと悲しい構造がここにはあるんですよね。
 ただ「大切にしまってる」と聞かされた花ちゃんは、「それならいいんですけど」と答える。それはこれから先も続いていく関係として「(いまは)いいんですけど」って意味も含まれていて。
 もしここで、みゃー姉に「それでも花ちゃんに見せたいから、髪留めを使おう」という勇気があれば……失くしてしまう可能性とか、気づいてもらえないかもしれない寂しさを受け止めて、それでも誰かのために動こうとするっていうのは、やっぱり「勇気」が必要なんです。
 だからここでみゃー姉が勇気を示せれば、花ちゃんとの関係がもっと前に進んだかもしれない。

 だからね、私はこの作品は、見ている人たちへ「勇気を出せと応援している」ものだと思っています。
 ……まぁ、あの、ロリコンにあまり間違った方向で勇気を出してもらうのも困るのですが。そこで「誰かのために」という前提が効いてくるんですよね。
 
 そして最後にストーカーである松本は一方的に見てるだけで「すれ違うことすらできていない」というオチになってるのは、この距離感を描いていた劇場版『わたてん』として、非常に正しい締めでしたね。

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 次回は『ぼくらのよあけ』評を予定しております。

 この話をしたツイキャスはこちらの13分ぐらいからです。


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