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一週遅れの映画評:『怪物』知っているから、見逃してしまうもの。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かして配信で喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『怪物』です。

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 DHMO、ジハイドロモノオキサイト。日本語にすると一酸化二水素ってネタがあるじゃないですか。重篤な火傷を引き起こす可能性のある物質で、原子力発電にも用いられ、多くの物質を腐食させる性質を持っている。にも関わらずあらゆる食品に含まれています! ……で実態は酸素が1つに水素が2つの物質、つまりH2O、ただの水っていうジョークなんですけど。
 要するに「物事は切り取りかた次第で印象が変わっちゃうよね」というお話なんですよね、この映画って。それを象徴してるのが、主人公である小学生のふたりがやってる遊びで。色んな動物とかが描かれたカードを、自分からは見えないように額に当てて(インディアンポーカーって言えば伝わりやすいかな?)その動物のヒントを出してもらって当てる。そのときのかけ声が「怪物だーれだ」なんですよ。
 つまりは普通の動物であったとしても、断片的に与えられた情報だけでは「怪物」になってしまうというのをあらわしているわけさ。
 
 で、お話としてはまず小学校教師の体罰/暴行事件からはじまるのね。息子の様子がおかしいことに気づいた母親が問いただすと、担任の先生から日常的に暴言と暴行を受けているって言うの。それで学校に乗り込んで問いただすんだけど、校長をはじめとして教師連中がのらりくらりと定型文みたいな反省と言い訳を繰り返すばかりで一向にラチがあかない。
 それでも時間をかけて問い詰めていった結果、ついに保護者説明会が開かれ担任から事実を認める旨と、謝罪の言葉が述べられる……のだけど、どっかしらこの担任が不服そうというか、事態に対して他人事みたいな空気を滲ませているわけよ。
 その見せ方がやっぱめちゃくちゃ上手くて、こっちとしては「なんだコイツ、最悪か?」って気分になる。それと同時に矛盾とまではいかないけど、ところどころ「ん?」って思う違和感というか、なんとな~く腑におちないところがあって。
 
 そこから今度はその担任の先生視点で、その騒動の内情を見ることになるのね。その結果として、学校の隠蔽体質が問題解決を先延ばしにさせていて、それが余計に事態を深刻にさせていることがわかってくる。それと同時に担任の「どことなく他人事」な理由も判明するのね。
 とはいえ、ここまででわかったことをまとめれば「ほとんどの人がちょっとずつ悪い」になってしまう。そうなると今度は、いまのところ言い訳のしようが無いくらい悪い振る舞いをしてる相手にも「コイツもヤベー奴でない可能性が……?」って考えないといけないような気がしてくる。
 
 その上でこの出来事の中心には、主人公たちふたりがいて。彼らの言うことや行動に、明確な嘘があるということを「全体を別側面から見てる」私たち視聴者にはわかるわけですよ。
 ここからその嘘をついている理由が明らかになっていくのだけど、それってある秘密を守るための行為なのね。これがさ、私たちはもういい大人だから「何を話して大丈夫か?」とか、そのリスクを見積ったり、万が一のときは対抗したり抗議する手段があることを知っているじゃない?
 私は子どもは決してバカじゃない、という立場で。この作品に出てくる子どももきちんと賢いのよ、だけど秘密を抱えていることで色々な選択を誤ってしまう。それは小学生が持ち合わせてる世界って家庭か学校ぐらいで、そこにいる人間も親と先生とクラスメートぐらいしかいない。だから持ち合わせてる情報がとても少ない
 それで最初に言ったように、断片的に与えられた情報だけしか持ってないと、そこには「怪物」がいるのとなんら変わらないのよ。だから賢いはずの彼らも、その本当なら居もしないはずの「怪物」に怯えるしかない……あるいは自分のことを「怪物」だと間違えて認識してしまう
 
 ただね、件の担任は「本の誤字脱字を探して出版社に教える」っていうのを喜色満面の笑みでやる。というめちゃくちゃ気持ち悪い趣味があるんですけどw それによって主人公のひとりが書いた作文に、わざと誤字をすることでメッセージを隠していることを発見すんですよ。
 文章を読んでるとき、誤字脱字なんて正直その文章にとって大して関係していない部分で。そこに注目して指摘することを趣味にしているなんて、すっごく限定された世界しか見ていない行為じゃないですか。でもそれだからこそ、彼らの抱えてる秘密に気づくことができる
 翻って、主人公たちは周囲の人間が発する何気ない一言とかでじんわりじんわり追い込まれている側面があって。こう日常会話においてどうしても一般論しか語ることのできない部分ってあると思うんですよ、例えばそうね……私は前の仕事が眼鏡屋だったから視力検査していたんですけど、そのとき「赤と緑の中の◎わかりますか~?」って聞くのね。そこでたまに「すいません、赤緑色覚異常で……」っていうお客さんがいたのよ。
 もちろんこっちは普通の人より視機能について詳しいから「失礼いたしました」つってスッとそれ用の検査に切り替えるし、当たり前だけど男性のうち9%ぐらいが該当することは知っているわけさ。だからといって「相手が赤緑色覚異常かも」って最初から考慮して視力検査はじめるのって、申し訳ないけどやっぱ難しいのよ。どーしたって「一番割合の多いグループ」に向けた方法、つまり「一般論」でファーストコンタクトを取るしかない(特に視力検査のレッド/グリーンテストは基本中の基本だし)。
 
 でもそうやって行動していると、この作品に出てくる主人公たちを傷つけてしまう。それは広い世界を知っているがゆえに「低確率で起こること」をいったん除外せざるを得ない面がどうしても出てきてしまうから。
 それに対してすごく限定された世界を見ている担任の先生が、主人公たちからのメッセージを読み取ることができる。
 
 これってすごく意地悪な構造になっていて、主人公のふたりは「見えている世界が狭い」から苦しんでいる。子どもがそんな目にあって欲しくない母親は世界の広さをある程度理解してるがゆえに、その苦しみに気がつくことができない。一方である種の視野狭窄を起こしている担任の先生だけが、その真相を発見することができる
 この絡み合いかたが、世の中はちょっとずつ良くなっているはずなのに、それでも救われない人たちがそこにはいる……というやるせなさと、どうにもできなさをあらわしていて、すごく良い作品だと思いました。
 
 いや~~~~、これ最初に出た感想が「すごい作品だけど、難しいなぁ!」だったんだけど、この「どの立場に立っても、良くないほうに進むルートが整備されている」感じが、こうやって話す困難さに直結しているんですよね。

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 次回は『M3GAN/ミーガン』評を予定しております。

 この話をした配信はこちらの16分ぐらいからです。


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