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一週遅れの映画評:『違国日記』朝の光が、待てなくて。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かして配信で喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『違国日記』です。

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 なんかちょっと違和感があったんですよ。だって『違国日記』ですよ、新刊が出るたびにXのタイムラインで誰かしらは言及している作品で、しかも昨今の流れでは無視することのできない「漫画の実写化作品」なわけですよ。なのに自分のフォロー範囲からとんと音沙汰が無い、これは何事か? と思っていたんです。
 それで実際に鑑賞すると、そのなにか言いにくい気持ちがなんとなくわかる。あのねぇ、映画としてはそこそこ良いんです。その上、"表面上"はかなり原作に準拠して頑張ってると思う。だけど、致命的なぐらいに原作が持ってるテーマと乖離してしまっているんですよね。
だから「素晴らしかった!」とは言えないけど「全然ダメ」とも言えない、褒めるにしても貶すにしてもかなり難しい「実写化」になってしまっているんです。それに輪をかけて、いまの実写化作品を取り巻く状況っていうのが「安易に言及することが憚られる」ものになっていて……だからなんとなく「黙ってようかな……」になってしまうのがめちゃくちゃわかるんです。

 一応ざっくりとしたお話としては、中学3年生である主人公・朝ちゃんの両親が事故で死亡してしまう。彼女が盥回しにされそうなところを、叔母である槙生が引き取ることを決意する。だけど槙生はめちゃくちゃ人見知りで孤独を愛する女、さらには朝の母親である姉のことをほとんど「憎んでる」と言っていいくらいに嫌っている。
それでも「姉と朝は別の人間だ」ということを理性で完全に了解していて、実際に他人に対して物怖じせず、目の前の事柄を自然に悪意なく、わからないことをわからないなりに受け入れることができる朝の性質を好ましく思っている。そんな二人がお互いに理解し合えたり、し合えなかったりしていく生活と緩やかな変化を描く……というのがおおまかなあらすじなのね。

 で、映画の中で朝ちゃんに関する重要な場面が3つあって
ひとつは朝の中学卒業のシーンで、彼女の両親が亡くなったのは中3の3月で卒業式まで半月もないタイミングだったの。それで忌引明けでいきなり卒業式になるのよ。で、学校に向かうと朝は何も伝えていないのに教師もクラスメートも、彼女の両親が死んでしまったことを知っている。というのも朝がそれを唯一伝えた親友が母親に話し、その母親が担任に連絡し、担任はクラスメートに伝えた。
 まぁさ、私はもういい年なので「そりゃそうするしかねぇわな」って思うわけ。家族ぐるみで交友があった親友の母親としては、そのことを伝えれる人間が自分以外にいないことを知っていたら、やっぱ学校に伝えないわけにはいかないし。それを知った担任はクラスメートに対してその不幸な出来事を話さないわけにはいけない。そこにある気持ちが「朝のためを思って」なのは間違いないと思うし、理解できる。ていうか私もその立場だったらそうする。
 一方で朝はそのことに激昂するわけですよ。あとはもう卒業式を残すだけの中学生活を「普通」で終わらせたかったと、あと1日だけなんだから親が死んだとか関係ないじゃないかって言うわけ。ただ「普通」に卒業したかっただけなのに、これでは「両親が死んだ子」になってしまう
この朝の気持ちもわかるんですよ。「普通」で終わりたい、悲劇として自分の中学生活が回収されてしまうのも嫌だし、少なくとも中学3年間は99.9%「両親がいた」わけだからその思い出を「両親がいたもの」として終わらせたいことはすごく共感できる。

 だけどその後、高校では初対面の相手に「両親が死んじゃって、今は小説家の叔母と暮らしている」って言うのね。それを言ったあとで「あれ?」ってなる。なんだかわからないけど「自分が何か間違ったことを言ったんじゃないか」って気分になる。ここがふたつめの重要なところで。
 これってつまりは「朝がなにを嫌がっているか」が端的に表されているわけですよ。自分が「こういうものだ」というキャラ/キャラクターとして扱われることに不満がある、そういうタグ付けによって自身が「こういうものだ」と規定されることに本能的とも言えるレベルで反感を覚えてしまう。だけどそこに敏感だということは、そのタグ付けが持つ効果をよく知っているということでもあるわけですよね。
 だから自己紹介的に「両親が死んじゃって、小説家の叔母と暮らしている」という強い属性を口にしてしまう。こうやってわかりやすいキャラクターを付ければ、コミュニケーションが取りやすくなるし「両親の居なくて小説家と暮らしている朝ちゃん」という特別な存在になれる。いうて15歳の少女にとって自分が「何者かである」ことは、すごく魅力的であるんですよ。でもそれは自分が嫌っている「タグ付けされること」とトレードオフの関係にある。さらにはそのタグって「朝自身のこと」ではないわけです、彼女の環境とか叔母さんの話であって、突き詰めれば彼女のことを何も説明できていない。いうなればハリボテのキャラ要素でしかないわけでなんです。
 だから「タグ付けが嫌」で「でも何者かになりたい」という矛盾した心情に対して「ハリボテの要素」を持ち出してしまったことは、めちゃくちゃ失敗している行動であるわけ。だけど朝はわりと理論をふっ飛ばして体感で結論に辿り着くタイプだから、そこで「なんだかわからないけど、間違えた気がする」って感じる。朝ちゃんのいいところは、それを「なんか間違えたかも」って理論として考えるのが得意な叔母さんに相談できるし、そこで与えられた回答を「そんなもんなのかもなー」ぐらいのテンションで盲信もせず否定もしない緩やかさで受け止められるところなんですよね。つまり後悔と反省がありつつ、ひとつの答えという「タグ付け」をきちんと回避していく

 で。3つ目のポイントが彼女は高校で軽音部に入るんですけど(いま「けいおん」で変換したら第一候補がひらがなの「けいおん」でちょっとイラっとしたんですがw)、そこでオリジナル楽曲の歌詞コンペがあって。そこで朝の書いた詩が3票ぐらい入って3位タイぐらいに選ばれるっていう、こう、超微妙なw これは原作では言語化されていて、映画ではちゃんと演出として描かれてるんですけど、自分で自分に対して「親が死んで、小説家と暮らしてるわりには、パッとしない」みたいな感想を抱くんですよね。
 つまりは自分で自分に「タグ付け」をしそうになってる。そこを「いやでもその背景を背負うには、結果がパッとしてないじゃん」というので自分の出来てなさを責めると同時に、タグ付けの欲望から寸でのところで身を躱しているんですよね。いや、ここはねぇ原作でやってることを上手く映像に変換している部分で、すごく良いと思うんですよ。
 それで最終的に朝は槙生叔母さんから「歌がうまいんだから、歌えばいいんじゃん」って言われて、その歌詞で校内ミニライブのボーカルを努めて。まぁそのライブシーンで映画はいい感じに終わるんですね。

 こうやって要素を意図的にピックアップしていくと、すごく良い映像化に思えるわけ。それに映画単体としてみると、自然光(に思える照明)の使い方がすっごいよくて、基本的に起こっている出来事は悲惨なわけですよ。だけどそこには必ず朝を照らす陽光がある。朝って名前が「必ず訪れる希望」って意味を込めて名付けた、ってエピソードが出てくるんだけど、それがこの自然光によって映像的な説得力を持って表現されているのは、確実に原作を超えてる部分だと感じるんです。

 だ・け・ど
 正直、朝ちゃんの言動とか行動の端々にあらわれる無垢さ、これがちょっと過剰なんですよね。いやわかるんですよ、悲劇になりすぎないようにしようって意図は、さっき話した照明部分からも伝わってくる。だから朝ちゃんの演技も、シリアスになりすぎない明るさを与えたくて「子どもっぽい明快さ」って方向に舵取りしてる。その演出意図はわかる、めちゃくちゃわかる。
それに加えて軽音部でボーカルやってるラストシーンも、やっぱエンディングとして盛り上がりが欲しいから「ちゃんとかっこいいライブシーン」として撮られているんです。
 だけどさぁ、それってめちゃくちゃ「タグ付け」なんですよね。映画っていうひとつの完成形とするため、ある程度は「朝」ってキャラクターを立てないといけない。だから「子どもぽい」感じになったり、本人の「パッとしない」という感覚とは乖離したライブシーンになってしまう。仕方ねぇとは思うのよ。エンターテイメント作品として、そうやったほうが絶対に面白い映画になる、それは間違いない。間違いないんだけど。
 でもそれって、そういったわかりやすい着地を最後の最後まで(ある種の厳しさを持って)回避した原作と、ちょっと真逆とまではいかないけど、結構遠い場所にあるものなんですよね。
 映画としては正しいし、いくつかの場面場面における原作準拠度はかなり高い、シーンによっては原作以上のものも見せられている。だけど全体が発したテーマとその着地がズレちゃってる……という非常に悩ましい作品でした。
 これねぇ、たぶん「映画→原作」の順で見たほうが絶対良いと思う。そういう意味では漫画実写化のひとつの方法ではあるのかな……と、肯定的に捉えるならそんな感じですかね。うーん、それなりに良い映画ではあったと言えるけど、感想を口にしづらい気持ちもすごく理解できるなぁ。

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 次回は『数分間のエールを』評を予定しております。

 この話をした配信はこちらの13分ぐらいからです。


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