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一週遅れの映画評:『ラストナイト・イン・ソーホー』毒を喰らわば。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『ラストナイト・イン・ソーホー』です。

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 これってたぶんホラーだけどホラーじゃないんですよ。いや実際に演出、とくに後半のそれはめちゃくちゃホラーっぽいわけです。だけど、確か前に『ハロウィン』評で話したことがあると思うけど、私はホラーの軸って「遺伝子vsミーム」の構造にあると思っていて。つまり恐怖っていう概念的なものが伝播し影響を与えていく側と、それに対抗する生命/生殖的な遺伝子のパワー、そのせめぎ合いがホラーの根底にあると思ってるのね。まぁすごく単純に言えば「なんとなく怖いvs死にたくない」の争いだと。
 
 でね、この『ラストナイト・イン・ソーホー』主人公の女の子って服飾デザイナーを夢見てロンドンの専門学校に通うようになるんだけど、ファッションのそれもデザイナーってつまりはイメージの担い手であるわけですよ。しかもこの子は60年代ファッションが好きで、それを現代のデザインに取り入れよう!って思っていて。
 洋服のデザインって文化コードの塊なんですよ。こういう社会ですよー、こういうジェンダー感ですよー、こういうメッセージがありますよー、っていう。ファッションっていう脈々と積み重ねられてきた概念を表現して現出させる、それがファッションデザイナーのやってることなわけ。しかも過去のリバイバル、昔あったものと現在を接合させようとしているのね主人公は。
 それってめちゃくちゃミームの継承なわけ
 
 主人公はなぜだか幽霊が見える体質で、最初は亡くなった母親しか見えないんだけどロンドンに進学で引っ越してきたことで、まず昔(60年代)その場所にいたサンディってほぼ同年代の女の子の日々を追体験するようになって、そのうちそのサンディと関係する男たちの亡霊も見えるようになるのね。
 これって端的に彼女の才能を示しているのよ。ファッションデザイナーというのは不可視の概念であるミームを受け継いで、それを視覚化して、物質化させることが必要で。そして主人公は幽霊亡霊っていう本来は過去そこにあった不可視のものを、見れる/見れてしまうわけじゃない。だから彼女にはそういう才能がある、ミームを受け取って解釈することに長けているってことがわかる。
 
 だから主人公が恐ろしい目にあうのは仕方ないっていうか……むしろそれを失ってしまうと、同時に彼女の夢は途切れる、とまではいかないけどハードルが上がってしまうのね。そういった意味でそういった恐ろしいものを見てしまう、というより「見える」才能とどうにかして付き合っていく、上手く乗りこなしていくことが求められる。それはラストシーンからも明白なんですよね。
 それって主人公も不気味なものの一端になると言うか。それがあらわれるのが、終盤で彼女は60年代の亡霊に「俺たちを助けてくれ」って懇願されるわけ、でね、その亡霊たちって今の常識で考えれば「いやおめぇらも悪くね?」って感じなんだけど……でもねー当時からすれば許容の範囲内の「悪い」なわけ。主人公は現代の女の子だからその亡霊の仲間になるわけじゃないけど、でも結果的に「助けてくれ」って願いを聞き届ける形にはなってしまう。
 
 主人公は60年代ファッションのリバイバルがしたいわけ、でさっきも言ったけどデザインっていうのは時代を反映せざるえない。だから60年代ファッションのミームにはそういった「当時の空気ならセーフだったけど、今は完全アウト」みたいな思想が混じってるわけですよね、これは不回避なものとして。それをある程度脱臭解毒しないと現代では通用しないんだけど、でも取り除きすぎるとリバイバルする意味が無くなってしまう。そして主人公の才能はその合意点を探ることができる。その上でどこまでその悪いものを、毒を飲み込むか?を決めなくちゃならない。
 
 これってキャンセルカルチャーとかポリコレに対するカウンターとまでは言わないけど、釘をさしてると思うんですよ。つまり文化っていうのは連続性を持って発展していて、その流れをどこかで断ち切って過去を完全に無かったことにすることはできない。そういう前提の中で過去の作品を「現代の常識」に当てはめて断罪するのは、本当に正しいことなの?って。
 それに加えて「いま正しいと思ってることが、将来もそうなの?」とも。実際60年代シーンでは「売れたいんなら権力者と寝ろ」みたいなことを当然のこととして言うわけですよ、だって当時は「それが正しい」のだから。その可能性を考えたとき、過度な漂白文化ってどうなん?みたいなことはかなり仕組まれてると思うんですよね。
 
 あのね、表向きは現代のジェンダー感のであったり、物語の中心にあるのがシスターフッドな関係であったりで、そういった点を見ればすごーくいまの社会におもねってるように感じられるんだけど、私にはそれを隠れ蓑にしてむしろ「そういう映画を求めてる層への苦言」が練り込まれてる作品だと思いました。
 そもそもホラーって結構ポリコレには弱いんですよ。差別とか虐待とか、そういったものを露悪的に取り扱ってるものが多いんだから。エドガー・ライトってロメロのファンだって公言してるし。だからこういったメッセージをホラーの皮を被って届けてくる辺りは絶対に狙ってると思うんですよね。
 
 付け加えおくとエドガー・ライト作品だと『スコット・ピルグリム』がかなり好きなんだけど、他作品もコメディが強いものが多くて、そしてコメディもホラーと同じぐらいポリコレ棒には弱いっていうか。ほら「誰も傷つけない笑い」みたいな妄言が持てはやされる中でギャグって難しいじゃん?そういう空気はたぶん世界的にあって……それに抵抗していく意味合いもあるんじゃないかな、と思いました。

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 次回はnoteで文字起こしするようになって100作目に相応しい!『仮面ライダー ビヨンド・ジェネレーションズ』評を予定しております。

 この話をしたツイキャスはこちらの15分ぐらいからです。


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