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一週遅れの映画評:『愛にイナズマ』偶然を、選べ。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かして配信で喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『愛にイナズマ』です。

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 なんかすっげぇ変な映画だったの。
 主人公は若手の女性映画監督で、自主制作の作品でちょっと話題になったおかげで少額予算だけどプロデューサーとか助監督とかがつくようになるのね。そこで「自分の家族」を題材にした作品を撮ろう! ってなるんだけど、そこで書いた脚本に次々ダメ出しされて……それも主人公が実際に目にした人とか出来事を描いているのに「こんな人いないでしょw」「もっと人間を観察して」とかいう薄っすいこと言われて。撮影に入っても「こんなやり方ありえない、業界の常識だよ」って茶々入れられる。
 最終的には「監督は病気で降板しました」ってことにされて、作品を奪われてしまう。「これは私の家族の話なのに、他の人間が撮るなんて!」と憤り、そこで見返すために「本当に自分の家族を撮る、半ドキュメンタリー映画を撮影する!」と意気込んでカメラを回しはじめる。って話なんだけど。
 
 あのねぇ、最終的に映画は完成しないのwそれも「できませんでした」みたいなのじゃなくて、普通に製作中で終わるっていう。で、お話自体もいま喋った映画監督として不当な扱いを受けたので復讐! みたいのは段々後退していって、家族の相互理解と再生のお話にどんどんスライドしていくのね。
 ただねぇ、それがすっげぇ面白いんスよ
 
 この映画、中心に据えられてるのって実は業界の無理解でも家族の話でもなくて「人生はコントロール可能か?」ってテーマなんですよね。
 主人公は脚本でも撮影でも「なんでこのセリフなのか?」「なぜそのやり方なのか?」「どうしてそれが必要なのか?」ってことを業界経験としては中堅ぐらいの助監督とプロデューサーから詰められるんですよ。それに対して「なんとなくです」みたいなことをいう。こう、世の中には想像もつかないことや、突発的なこと、説明できないことを起こるって主人公は主張していて。それに対し助監督は「そんなものは無い」と言い張る。
 いや、この助監督がちょっと東浩紀に似ててwなんというか「主人公の邪魔をする、悪い批判家と業界規範!」って印象を与える演出がされてるんですけど……でもねたぶんここってそんな単純じゃあないと思うのよ。
 
 主人公はこれまで自主制作映画しか作ってない、監督/撮影/編集全部わたし! みたいな作り方をしている。だから「よくわかんないけど、これが良いと思う」で作品が作れるわけですよ。だけど今回はちゃんと予算がついて、スタッフがいて、名の通った役者も使える。そうなったとき監督には「このシーンの意図はこうで、これにはこういう意味があって、なのでこう撮ります」って説明責任がある。個人じゃなくて集団でひとつの作品を作るためには、そういった意思の統一か最低でも目的の提示というのは必要になってくる。
一方で批判的な助監督も「これが業界の常識! 全部理由をつけろ!」みたな凝り固まった立場を崩そうとしないから、コイツもコイツでだいぶ問題あんだけどね。
 まぁ批評をやってる私としては監督と助監督の「ここに赤い色の何かが欲しいです」「なんで赤なんですか? 説明してくださいよ!」ってやり取りの間に割って入って「まぁまぁ、それは私の批評的介入によって論じてやるぜ!」みたいなことを考えて見ていたわけですがw
 
 とにかくここでは「アンコントーラブルなものに重きを置く自主制作映画監督」と「作品はコントロールされなければならないと考える商業映画スタッフ」という対比が行われているわけですよ。
 で、その結果として主人公は「ドキュメンタリーの手法で本当の家族を撮る」つまり意図的にコントロールを手放した作品を取り始めるわけだから、ものすごく理にかなっているわけですよ。
ここにちょっと奇妙な二重性があって、作中で主人公はやむを得ない事情でドキュメンタリーの手法に走らざるえなくなる。つまりはコントロール不能な状況にあるにもかかわらず、この作品全体としてはすごく理屈にあった、つまりコントロールされている展開になっているわけです。

 で、その構造が家族に間にもある。主人公の母親は幼い時に行方をくらまし、父親は傷害事件を起こした前科があって。これらのできごとは主人公にとって、自分ではどうしようもないもの、つまりコントロール不能なものとして描かれているんだけど。
 母親は浮気相手と家を出て行ってるとわかり、父親の傷害事件も友人の娘を傷つけて自殺に追い込んだヤツをブン殴ったからだ、というのが判明する。そういった意味では当事者(母親、父親)は自分の意志で行動していて、一応のコントロール下にいたと言えるわけです。
 
 そんな中、実は母親の携帯電話をまだ解約してなくて、電話番号がわかる。と父親が言い出す。意を決してその番号へ20年以上ぶりにかけると……3年前にもう亡くなっていることが、その浮気相手から告げられる。
 で、その携帯電話を解約しに行くと「本人ではない、委任状もない、死亡届もない。それだと防犯上の都合で解約できません」とにべもなく追い返されてしまう。
 ここでは、本来コントロール可能なもの……携帯電話の料金を払ってるのは父親だし、人間が操作する機械だし、そもそも「契約」というものが出来事をコントロール下に置くためのものなのに、なぜか「コントロールできないもの」として立ち塞がってしまう
 
 そのコントロールできる/できないというものがついて回る状況を、この映画はずっと描いているわけです。
 そしてね、作中で「いまはコロナ禍だ」ということが何度も繰り返し言及されるわけですが。コロナ、つまりは自然発生した強力な伝染病って本質的にコントロール不能なものであるわけです。だけど人類は手を洗って、マスクをして、ワクチンを打つことでそれに抗っている。すべてをコントロールできるわけではないけど、それでも少しずつその範囲を広げることで不完全なコントロール下に置こうとしてきたし、ある程度はできている。
 つまり「人生はコントロール可能か?」というテーマに対し、「全部はできない、でもできるところはできる」という解を見せていて、それはそのまま【映画】というメディアとは何か? というものをもあらわしているわけです。全部が偶然だ、っていう主人公も。全部に理由がある、っていう助監督も間違っていて。
 そこにたまたまあるものを、人の手で映像に変えていくこと。そのせめぎ合いがあらわれているのですよね。
 
 だからタイトルの『恋にイナズマ』って、人の心と自然現象が「発生」することをコントロールできないけど、起こってしまったそれをどうするかはある程度コントロール可能である。というものの代表として選ばれているわけで、だからこの「に」は、「イナズマを恋へ」ではなく「恋そしてイナズマ」の並列を意味する『に』なのでしょうね。

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 次回は……己の矜持に従うなら『おしょりん』、見たいのは『ゴジラ-1.0』なんだよね……うーん。

 この話をした配信はこちらの18分ぐらいからです。


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