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一週遅れの映画評:『BAD LANDS バッド・ランズ』愛ある世界の苦しみを。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かして配信で喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『BAD LANDS バッド・ランズ』です。

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 こうやって長いこと映画評なんてものをやっておりますと、なんとなく「これは喋りにくいな」という傾向が見えてくるんですよね。
 例えば、映像がバキバキにキマってるタイプ。画面の演出とか、映すものの取捨選択、あとはオブジェクトの配置とかで語外に漂わせる雰囲気をコントロールしてる作品ね。
それとストーリー全体が緩やかな伏線で繋がってるもの、最初にあったこれはこういう意味だったんだ!(ドーン!)みたいのじゃなくて、「あぁ、あそこのセリフがここでじわっと効いてくんのね」ってタイプのやつ。あらすじからは外すしかないけど、その連続性が作品の質を高めているから無視できない。
最後に、役者のパワーが強すぎる作品。演技が良すぎて作品のメッセージが言語化しにくい部分で伝わってきたり、特になんてことのない場面でも異常なまでに迫力が出たりする。
 なんにせよ、こうやって「テキスト化する」のが困難な作品というのがあって、これがね例えば5,000~10,000字ぐらいでやるならなんとかなったりするんだけど、この映画評はだいたい2,500~3,000字辺りを目安にしてるからどうしたって限界がでてくる。
 
 何が言いたいかっていうと、『BAD LANDS』は完全にいま挙げた「困難な作品」の条件をバリバリに満たしていて、超やりずらいwしかもいま言った条件って「良い映画」は少なからず持ってるものでもあるので、それを全部満たしてるってことは『BAD LANDS』めちゃくちゃ面白い作品だったんですね。
 
 いやもう特に安藤サクラがさ、ヤバイのよ。所作のひとつひとつに説得力がある、「こういう人間が実際にいたら、確かにこういう動きをするだろう」っていうことをわざとらしくなく入れてくる。
鶏肉と野菜を適当に和えたメシを食いながらノートパソコンにログインするとか、帽子をパッっと被ってから改めて位置を直す手つきとか、自分の片耳が聞こえていないことを利用して会話のペースを取ろうとするところとか、「この映像のための動き」じゃあなくて「普段からそうしているところを、たまたまカメラが捉えていた」と感じさせるところが、めちゃくちゃ凄くて。

 で、その安藤サクラが演じている主人公ってのが、明らかにヤクザ絡みのオレオレ詐欺だったりとか、偽装結婚とか、生活保護者を管理して搾取する貧困ビジネスとかの片棒を担いで稼いでいる。一方で、その生活保護者たちがちゃんと暮らしていけるように、明らかにビジネスとして必要な範疇を越えたサポートをしていたりもする。
 そうやって暮らしてる中で刑務所に入っていた弟が出所してきたり、そんな世界とはまるで関係なさそうな投資で大成功を収めた人物が主人公を探していることも徐々に明らかになっていく……って感じでお話が進んでいくんですね。
 
 それでこの作品、最終的には「相互理解の不可能さ」を描いてると思うんですよ。さっき言ったように主人公は明確にビジネスからはみ出した手助けをしている。それは自分が幼かった頃に可愛がってもらった恩義とかが背景にあって、それって主人公視点からしたら理に適ってることなのね。だけど他人からしてみたら、よくわからない。
 主人公を反社ビジネスの手下として使ってる男、コイツはそうやって大金を稼いでいることで、表にも裏にも顔が利く。ヤクザにも強い影響を与えられるし、警察組織にも食い込んで逮捕を免れている。で、実はこの男は主人公の父親なんですよね。
父親なんだけど離婚して、主人公はいったん母親について行ってる。だけどその先で母親の再婚相手から虐待され、逃げだしてこの男を頼って来てる。

 まぁ、その頼ってきたシーンがめちゃくちゃ最悪で。男は実の娘に対して「おぉ、もちろん助けたる」って言いながら「舐めてキレイにしてくれんか?」って自分の靴を指さすんですよ。うわ、酷い、助けるっていうか支配したいだけじゃん! て思うじゃない?
 だけどねぇ、私はこの男が主人公に対して「愛情」を持っていたことは間違いないと思うんですよ。まずどうでもいい方の話として、たぶんこの男の対人認識は、私と結構近い気がするんですよ。つまり相手がこっちに敬意を払っている限り、かなり優しいというか面倒を見てくれる。ただこの「敬意」というのが厄介でw慕ってくれてるとか、尊重しているもそうなんだけど「恐怖している」とか「逆らえない」とかも「敬意」の一種なんですよね。
「恐れる」っていうのは、こっちの力を自分より強いと推し量って、距離を置こうとする態度だから、それは変形した「敬意」の一種だと感じるんです。だから靴を舐めさせる、そうやって服従している限りこっちも最大限の好意でもって相手を受け入れる。たぶんそういう性質が根っこにあるんですよね。だから屈辱を与えるけど、代わりにその屈辱よりも大きいリターンを返している。
 で、こっちの方が作品としては大事なんですが、優秀な悪人って「愛情が無い」わけじゃあないんです。あるいは「情を利用しよう」ともあまり考えてなくて、ただその「愛情の価値判断」が異様に正確でブレないのですよ。
 
 娘は愛してるから、ちゃんと自分の手下として可愛がって、ゆくゆくは自分の後を継がせようと思ってます。だけどそうやってリソースを割けるのはここまでですよ、ってラインが強固にある。自分はコイツのためならここまで損をしていい、だけどここから先は「愛情」で賄える範囲を超えるから切り捨てる。
 好きな相手、愛してる相手に対して理屈じゃない対応をすることってままあるじゃない? 自分にとって不利なことでも、そういう相手だったら簡単に受け入れられる。で、人は往々にしてそのマイナスをずるずる抱えていって破滅していくわけだ。だから「ここまでのマイナスはOK、こっから捨てる」ってラインをビシッ!と引けてブレさせないことが、優秀な悪人の条件であるわけですよ。そして親子だけあって、主人公もその感覚を持ってる。実際この主人公はすっごい優秀な人間として描かれているしね。
 
 で、これが「相互理解の不可能さ」に繋がるわけですよ。自分としては愛情を持っているし、ここまではOK/ここからはダメってラインがある。まぁ誰だって多少はそういうものを持っている。
 だけど他人からはその愛情の過多とか、そのラインとか見えないわけですよ。だって「靴舐めろ」って言うやつが、実は結構マジで自分に愛情を感じてるなんて思わないじゃん!
 それと同じように、主人公の弟も、面倒を見ていた生活保護受けてるおじいちゃんも、ちゃんと愛情を持っていて。ただそれを知る術なんかないから、なにかが起きることで事後的に「あ、そのくらい自分は愛されていたのか」って気づくことしかできない
 しかも主人公は優秀な悪人だから「損切するライン」をきっちり引けるけど、代わりに他人のそのラインがブレブレだって発想があまりない(あるいは残り寿命との比較でラインが変動することを想定できない)。
 
 相互理解なんて不可能なんだけど、それは「愛情が無いから」ではなく「愛情があるから」だっていう結論をこの作品は示していて。それは愛のない世界を生きるよりも、愛はどうやっても伝わらないし、それはいつだって予想外の事後にしかあらわにならない世界に生きるほうが、本当はめちゃくちゃ苦しいんですよ。という話なのだな、と。
 これ原作が『勁草』ってタイトルで、「勁草」って強固な思想を風に負けない草木に例えた言葉なんですよけど、その「勁草」つまりこの作品における「愛情とそのライン」によって生きる先が『BAD LANDS』だ、というのは実にタイトルも含めて素晴らしいと思います。

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 次回は『オクス駅お化け』評を予定しております。

 この話をした配信はこちらの15分ぐらいからです。


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