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一週遅れの映画評:『漁港の肉子ちゃん』それはずっと、揺れ動きながら。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『漁港の肉子ちゃん』です。

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 この作品て徹底して「対称であること」、えっと線対称とかっていう意味の「対称」ね。その対称であるって配置がされていて。
 たとえば肉子ちゃんは太っていてブサイクで粗野なおばちゃんなのに対して、主人公のキクりんは子供ですっごく痩せていてかなりの美人だったり。主人公は質素でシンプルな恰好を好むけど友達はふりふりの服を好んで着てたり、そこに結構な貧富の差があったり、そういうわりと「極端と極端」みたいな対比が描かれているんですね。
 
 それは舞台設定もそうで、漁港って場所なのに肉子ちゃんが働いているのは焼肉屋だったり……そういった配置が一番あらわれているのが原作だと主人公たちはその焼肉屋「うをがし」の裏手に居を構えているんだけど、映画では港に浮く船を住居として使っていて。これって文章だと彼女たちの暮らしがどこで行われてるか?ってけっこう表現しにくいんだけど、映像だとあらゆるタイミングで「海に浮かぶ船が住処」って映像が差し込まれる(というか差し込むことができるし、どうしても描かざる得ないとも言えるのだけど)。
 そこでふたりの生活を描写する度に陸と海っていう「極端と極端」をひたすら映し続けることになるわけです。だからこの、基本的にはこの作品、そういった対称性がメッセージの中心に近い部分に存在しているのよ。
 
 主人公のキクりんと仲良くなる男の子のニカイドウくんっていうのがいわゆるトゥレット症候群ぽい描き方をされていて、こう不意に変な顔、ぐわーっと目を見開いたり、唇尖らせたり、歯を剥き出しにしたり、(ここ少しセンシティブな話になるので割愛)をしてしまう。
 それをたまたま見たキクりんは、それが気になってニカイドウくんを目で追ってしまうようになる。それがきっかけで仲良くなるんだけど……これニカイドウくんは「別にやりたくないのにやってしまう」っていう状態で(とはいえ本人は「まぁそういう風なんだ」って思ってる程度で、それほど嫌とも感じていない)、それを見たキクりんはそれをちょっと変だと思うけど同時に「好ましい癖」として捉えていて、試しに自分でもその変な顔をやってみると「顔を動かすって、なんだか気持ちがいい」って思う。
 だからニカイドウくんに「そうやって顔を動かしたくなるの、わかるよ」って言うんだけど、ニカイドウくんは「自分はそういうつもりでもないんだけど」とやんわり否定する。
 
 それに加えて、これ作品のキャッチコピーとして使われてる「みんな望まれて生まれてきたんやで」って言葉。これ作品見れば一発なんだけど、それは普通に嘘で、でも決して「望まれて生まれてきた」わけでもない。主人公の母親は「どうやら自分は子供ができない体らしい」と思っていて、それでもキクりんを懐妊する。だからそこには「出来ると思っていない子供ができた」って背景があって、それはやっぱり「望まれて」生まれたわけではない。
 それでも母親はその子が生まれてくることを喜ぶわけで、そこは絶対に「望まれてない」わけでもない。
 
 この「変な顔をする」ことの捉え方の違いとか、「望まれて生まれて」きたのか?っていうことの対照的なことに対して、事実は「そのどっちでもない」って告げている。それはこの「極端と極端」でありながら、物事はそう簡単にどちらかに振れてしまうことは無くて、その間、中間でもなくあっちへふらふらこっちへふらふらと揺れ動くように存在していて
 キクりんも自分が美人でカワイイことをまぁ結構な自覚があって、それでも「変な顔」をする快感に目覚める。肉子ちゃんの体型には成りたくないなー、とは思ってるけど食べるのは好きだし、特に肉子ちゃんが働いてる「うをがし」でまれに出てくるミスジ肉に目が無かったり。
 あとはそうね、キクりんは髪をベリーショートにしてショートパンツで。すごく男の子っぽいとも言える恰好なんだけど、自分がカワイイ自覚はあって。まだ初潮が来ていないけれど、そのことに「生理なんて来なくていい、子供のままでいたい」とも思ってるんだけど、そういった子供の無力さや面倒くささに「子供時代なんてはやく終わって欲しい」とも思っている。
 先にもいった住居。あそこも映画によって変更された「浮かぶ船」というのも陸と海の境界でふわふわと揺れている存在で、やっぱり極端と極端の狭間で揺れてることを、今回の映像化にあたってすごく意識的に描いているのね。
 
 特にそれがラスト辺りに効いてくるのが、キクりんは肉子ちゃんに
「うちは肉子ちゃんみたいになりたくない。貧乏でダサくて、太っててブサイクで。絶対に肉子ちゃんみたいになりたくない」
 っていいながら
「でもな。うちは、肉子ちゃんのことが大好きや」
 と告げる。
 肉子ちゃんとキクりんは全然違っていて、それは極端と極端なのだけど、あの間に気持ちはあって、その関係性はどちらかに偏ることなくその二人を繋いでいる。目に見える部分、わかりやすい部分にある両極ではなく、目に見えない「関係」というものがその狭間にはあって、それは揺れ動きながらそのふたつを繋いでいる。
 
 正しいことがあって、正しくないことがあって。でもその片方に寄るんじゃないくて、その間を自由に行き来すること、あるいはしてしまうこと。その楽しさと厄介さ、が作品全体にあるのですよ。
 なんかねそれを考えると、この映像化にあたって明石家さんまがオファーをしたって部分が納得できるというか……笑いって正しいと正しくないの狭間にあるわけですよ。とくにさっきも例に挙げたけど芸人さんのパーソナリティとか、明石家さんま周辺でいうとジミーちゃんとかね。そういったちょっと外れてしまっている人を受け入れる度量、みたいなものがそこにあって。
 そういった「楽しさと厄介さ」を知る人物として、これは明石家さんまだけに限った話ではないけど、そういう部分を理解している人がこの作品を推す、っていうのはすっごく理解できる部分だなぁ、と。
 
 そういった意味では主人公のキクりんが、最後にめちゃくちゃカワイくてスレンダーで繊細で賢い……だから肉子ちゃんと比べて自分は「普通だし、普通でいたい」と思っているのだけど、実は「めっちゃくちゃ変わってる部分がある」ことが判明するのね。それがすごく良いのよ。ひとりの人間の中にも「極端と極端」が存在していて、それは自分でも全然ままならない。
 けれどもそのバランスの間で揺れながら、その揺れに苦しみながら同時に楽しめることの面白さ、その肯定がそこにはある、そういう作品でしたね。
 
 少し自分の話をすると、私はまぁ今日話したみたいにバイクが大好きで。それでバイクに乗るって単純にめっちゃ死にやすいのよw
 それって生きてると死んでるの狭間に自分を置いている、ってことで。その厄介さと楽しさ、面白さってやっぱり独特で。そういった部分において「望まれて生まれてきた/望まれていない」に近い「死のうとしている/死ぬ気はない」の狭間に自分の身を捻じ込みたい、みたいな欲望はあるんだと思う。
 
 だからあれね、たぶんこれで評論書くなら今期の『スーパーカブ』と絡めて語る形が、私にはキレイにハマるかな?と感じました。

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 次回は喰らえっ!フェイタリティ!『モータルコンバット』評を予定しております。

 この話をしたツイキャスはこちらの15分ぐらいからです。


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