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一週遅れの映画評:『トゥルーノース』0.1%の奇跡の背後に。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『トゥルーノース』です。

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 あんまいい批評というか語りができる自信がなくて、まぁそれは見る前からある程度わかってはいたんだけど……。
 
 北朝鮮の政治犯収容施設の話で、主人公は幼い頃に父親が捕まってその一家だ、ということで収容所に捕らえられる。っていうところからストーリーは始まるんだけど、その前に『TED talk』あのアメリカのプレゼンテーション番組のアレね、あそこで一人の男性が「私は北朝鮮から逃げ出して、いまこうして話ています」「これからお伝えするのはひとつの物語です」そういう導入から映画自体ははじまるの。
 
 でね、主人公が7、8歳ぐらいかな?あの感じだと。そのぐらいの年齢で強制収容所に入れられて、そこがまぁ地獄としか言えない環境で……とういうかここでね、その環境の酷さを語ったところであんまどうしようもない、いや違くて。その、どれほどここで言葉を尽くしたところで「90分以上ある映像の間接的要約」にしかならないわけじゃない?だからこうどれだけ話しても、そこからスポイルされてしまうものはあって、もっと言うなら私の表現の限界が、その環境の酷さの限界になってしまうわけですよ。
 だから映画評と銘打ってあるにもかかわらず「作品を見てもらうのが一番いい」っていう、ある種バカの結論にしかなんなくて。いやでもこうやって何年も(かれこれ8年近く)映画の話をしてる人間がさ、「いやこれは見てもらうしかねぇわ」って結論を出したってところにね、その意味を見いだしてもらうしかないんだけど。
 ただ強制収容所って言葉からイメージできる悲惨さがあなたの中にあるとして、マジでそのまんまの世界。一番フィクションで近いのだと『北斗の拳』の大監獄カサンドラみたいな……ほらやっぱダメじゃ~ん、リアルな最悪さを表現するのに北斗の拳を例示したらダメだって絶対伝わんないって。いやまぁここで「ウイグル」獄長って名前から、ほかの地域のことを思い起こさせるみたいな狙いはあるっちゃああるんだけど。
 これがいい批評ができる自信がない、の半分ね。
 
 で、もう半分が……そのねぇ、この『トゥルーノース』。そもそも映画としてちゃんと面白いんですよ。起承転結もしっかりしていて、人間の弱さ強さ、非情さ優しさがしっかりと対比されていて、いくつもの伏線がきちんと回収され、そこに極限状態で紡がれる友情と愛があり、なけなしの勇気を振り絞る崇高さが描かれて……本当に物語としてよく出来ている。
 でね、私はオタクですよ。現実よりもフィクションに耽溺したい方の人間で、そういう手合に「ちゃんと面白い」作品を提示したらどうなるか?って、それをリアルな物語として受け止めるのが面白ければ面白いほど困難になってしまうんですよ。
 映画終わってからさ、こう考えるわけ「来週これをどうやって話そうかな?」って。頭の中でいま見た作品をまとめて、このポイントをこうやって取り上げて、とか考えるわけさ。その手つきが完全に虚構と向き合ってるときの態度なわけ。物語としてこういう構造だから、こういう批評的介入ができるなー……とかしばらく考えたあとに「いや違うじゃん!これを100%フィクションとして分解していくのはおかしいだろっ!」って自分で思っちゃって。
 だから冒頭に自分の語りが悲惨さをスポイルしてしまう、って部分に繋がるんだけどさ。ただやっぱTEDのシーンで言われた「物語」って表現は正しくて、これは実際に北朝鮮ではそういう酷い状況があって、紆余曲折の末そこから逃げ出して、こうやって語れる人がいるのも事実で、でも映画で描かれた内容自体は脚色というか複数の人間に起きた出来事を整理してまとめてあるから「完全実話」ってわけでもなくて。
 だからお話として面白ければ面白いほど、ちゃんとシリアスな問題として、そういう提言として受け止めるのが困難になってしまう。いままで見てきた幾つものフィクションの一つに収容されかねないって危険性を孕んでいるんです。
 
 んーとね、フィクションの効果を低く見積もってるわけじゃないの。虚構だから獲得できる一般性、共有性ってのは絶対あって、そういう形で紡がれて伝えられて、それで心に宿るものが確かにあって。それは現実を描くだけでは決してたどり着けない、大事な概念を伝えるためには絶対に必要なの。私はその効果をめちゃくちゃ信奉している。
 だけどね、そこで伝えられるのはやっぱり概念で、それは本当に本当に重要なんだけど……でも抽象化されてる素晴らしさ、というのはどこかで現実の問題を遠ざけてしまうのね。
 でこの『トゥルーノース』で描かれているのは、やっぱり現実の問題で。そこから虚構として意味を読み取っていくのはやっぱり不誠実だとは思うんです。だってそうじゃん、この物語で描かれた概念に涙した瞬間にも、現実にその場所で苦しんでる人がいるわけじゃない?そこに存在する断絶は作品について考えれば考えるほど広がってしまうわけですよ。
 
 実際に伏線回収もあります、すごくきちんと序破急があります。でもそれってそういう物語が作られているのと同じくらい、「そういう奇跡的な物語が綴られるほど、沢山の人がその境遇にいる」「ここで語られる救いの背後には、その言葉を伝える前に死んだ十数万人がいる」っていう背景が存在する。0.1%の奇跡が語られるってことは99.9%の悲劇がそこにはある、そのくらいの人たちが現在進行形で苦しんでいる。そういうことなんです。
 
 やっぱドキュメント、あるいはドキュメント風の作品をこうやって話すのは難しいね。少なくとも私には向いてない。だからやっぱ「いやこれは見てもらうしかねぇわ」って結論をぶん投げて、私は私の役割としたいと思います。

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 次回は『漁港の肉子ちゃん』評を予定しております。

 この話をしたツイキャスはこちらの18分ぐらいからです。


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