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一週遅れの映画評:『マッドマックス:フュリオサ』俺とあいつが、魂でバイク。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かして配信で喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『マッドマックス:フュリオサ』です。

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 ものすごい沢山の「切断面」がある映画だと思うんですよね。いや、物語が分断されてるって意味じゃなくて「視聴者が解釈を差し込める箇所が多い」という意味で。例えばそうね、前作(時系列的には”その後”)である『マッドマックス 地獄のデスロード』とある種の物語類型(民俗学的アプローチ、と言っていいのかな?)を重ねることで「行って帰ってくる物語」として読み取っていく……とかも面白いと思うんです。

 というフリが出てくるってことは、今回「それじゃあない」ってことなんですがw
 もうね、私は本作で諸悪の根源に据えられたディメントスってキャラクターに夢中で。いやもうコイツがめちゃくちゃ良い、というか自分と共通しているものを持っている気がして、つい共感しちゃうヤツなんですよね。
そもそもこの作品を見た人にとってディメントスは結構ふわふわした印象だと思うんです。作中の前半/中盤/後半でキャラクター像が一定していないように見える。初登場した時は「バイカー・ホード」っていう荒くれバイク集団のリーダーで、神秘的とも言えるカリスマ性と荒廃した世界をサバイブする残虐性を合わせ持った人物なわけですよ。なのに中盤いきなりアホになるw 燃料の支配権を強奪してヒャッハーしだし、その勢いで武器の生産?関連も暴力で支配下に治めるんですけど。その燃料支配地域がまったく統制できてないの、めちゃくちゃ民衆から反抗されてヘタすりゃそのまま殺されそうになってる。武器関連の場所でもフュリオサたちに襲われてすごく情けない醜態を晒してしまうんですよね。
 なのに終盤。手にしていた権力も財産も何もかも失って這々の体で逃げたあげく、フュリオサとタイマンになるんですが……ここでいきなり超カッコよくなるんですよ! フュリオサの前に立ち塞がる過酷な運命、その擬人化ともいえる役回りを担うわけ。それって言ってしまえば作品のテーマによって乗り越えるべき障害そのものなんだから、そりゃカッコいいわけですよ。
 これを「キャラ設定ふわふわしてんな」で切り捨てるのは間違っていて、ここで描かれているものって「人には向いている生き様がある」ということなんですよね。その上でディメントスに向いている生き様に私はめちゃくちゃ共感してしまうんですよ、なぜならそれは「バイク」だから

 私にしてみりゃ「バイクだもんな!」というだけで理解できるんですが、魂(ソウル)の形がバイクじゃない皆さまはポカンとするばかりだと思うので順番にいきますね(なおここで「なるほど!」になる方は、「お前は俺と一緒だ」まで飛ばしていただいて大丈夫です)。
 まず最初はディメントスってバイクチームのリーダーなんですけど、その影響範囲っておよそ自分の視界ぐらいまでなんです。それほど多くない集団で、しかも生活は野ざらしか良くて布製のテントぐらいの、ものすごくオープンな場所になっている。バイクに乗るっていうのは、自然に対して生身を晒す行為であるわけです。だから時には砂嵐が襲ってくるような砂漠で、野ざらしのまま生きるというのは生活そのものがバイクみたいなものなんです。しかも生身が剥き出し、その体を隠すものがないから全部見えている。目視できる個人であることと、支配範囲が「視界」であることが密接に繋がっているわけですよね。
 ところがディメントスが燃料の支配権を強奪し、ガスタウンに定住した途端めちゃくちゃ情なくなる。そこにはちゃんとした住居があるし、タウンっていうぐらいだからバイクチームより範囲も人数もケタ違い。あまつさえ――これがマジで最悪なのですが――車に乗ってやがる! こうなってはもうどうしようもない。ディメントスは魂の形がバイクのくせに車なんかに乗っちゃうから、いままで発揮できていた神秘性もカリスマ性もぜーんぶ剥ぎ取られてしまう。しかも住人は屋根と壁があるところに住んでるから、視界も通らない。だから誰もまともに言うこと聞いてくれないし、めちゃくちゃ反抗されて命を狙われてしまう。
それに続いてバレットファーム、つまり武器・弾薬関連の権利を手にしても変わらないどころか、一層ショボい敵役に転がり落ちていく。結局ディメントスはフュリオサたちの手によってガスタウンもバレットファームを失ってしまうわけです。
 だけどそこから元のバイクチームだった精鋭4人と自分だけになって再びバイクで走りだしたら、流石に最初で見せた神秘的で底が知れない雰囲気は剥奪されているけど(まぁ実際に底が知れちゃったからねw)、暴力性と自身の行動に対する思想への誠実さを取り戻す。多少カリスマ性が落ちたところで、自分の哲学に従う暴力の担い手というのはカッコいいに決まってるんですよね。
 ディメントスは「バイク」であることでその存在を高め、「バイク」を失うことで転落し、再び「バイク」を手にすることで強く蘇るです! うぉー! わかるぞディメントス! フュリオサじゃなくて、私にリトルDの称号をよこせ!

 でね、ディメントスの思想哲学を本人は「復讐」って言うわけですよ。妻と娘を奪われた復讐をしているだけで、それついてフュリオサに向かって「お前は俺と一緒だ」って言うんです(※合流ポイント)。それに関しては、確かにフュリオサは復讐を果たしつつも『地獄のデスロード』に続く行動として「それだけじゃない」ことを示して見せている。
 だけどね、だけど。ディメントスとフュリオサが「一緒」なところって、実はその「続く行動」の部分もだったりするんですよ。

 この作品に出てくるボスクラスのキャラクターって、砦のイモータン・ジョーがまずトップにいる。それに続く形でディメントスに奪われる前のガスタウン・バレットファームをそれぞれに支配していたヤツ、でそのあとにイモータン・ジョーの配下……ってなってるじゃない?
彼らに共通しているものって「定住と保守」なんですよね。砦もガスタウンもバレットファームも、それが示しているのって「場所」じゃあないですか。だからその「場所」に留まり、維持しようとしている
 だけどディメントスは違う。さっき話したように彼は「定住」することに、絶対失敗する。その代わり「移動と変革」しようとするときには、めちゃくちゃ優秀で強力な力を発揮できた。それは先に進もうとするフュリオサも同じで、彼女は故郷である「緑の地」に帰ろうとしている。だけどただ帰るだけの「定住と保守」はうまくいかなくて、最後にイモータン・ジョーの奴隷である花嫁たちと一緒に向かおうと、つまり「移動と変革」を求めたときにようやく前へ進めるようになるんですよね。
 だからこの作品においてディメントスとフュリオサは本当に「俺とお前は一緒」だったりするんです。ただそこで勝者と敗者に分かれたのは、ディメントスは復讐を優先するあまり「自分に向いている生き方」を捨ててしまったからなんですよね。

 やはりバイク。人はバイクに乗るべきである……という深い真理と教訓のある映画でした。暴力も カリスマも ブレ無さに宿る。BKB、ヒィーヤ!

 それでは今日のEDです、聴いてください。クロマニヨンズで「おれ今日バイク」。

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 次回は『違国日記』評を予定しております。

 この話をした配信はこちらの16分ぐらいからです。


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