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一週遅れの映画評:『セイバー+ゼンカイジャー スーパーヒーロー戦記』繋ぎ合わせた過去から生まれる未来について。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『セイバー+ゼンカイジャー スーパーヒーロー戦記』です。

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 あのですね、『仮面ライダー』を比較的熱心に追ってる人たち、まぁ私もその一人なんですけど。そういう人たちが数年前、というか2019年の夏からですね、抱えてる障害というか問題というか……そういうのがあると思うんです。
 私の気のせいではないと思うんだけどな。わかる人にはもうわかるだろうけど、あれですよ、2019年の超名作『仮面ライダージオウ Over Quatzer』の後遺症ですよ!
 
 この『ジオウOQ』で「(平成ライダーの歴史は)凸凹だらけだ」と言われて、それに対する「瞬間瞬間を必死で生きてるんだ!」という返し。これがね、もうずっと仮面ライダーを追ってきた私にとっては「そうだよね!!!!」みたいな。どうしようもないところも、ダメなところもいっぱいある。でも素晴らしいところも、強く心を動かされてしまうところもいっぱいある。それを全部ひっくるめた『仮面ライダー』の良さがあるわけです。この言葉だけで過去も未来も全て肯定してしまう強いやりとりで。
 
 ただねぇ……なんかこう、『ジオウOQ』以降ちょっと「凹な部分が出てくると嬉しい」みたいなwいや元からそういうのはあったんですよ?無茶苦茶なことをされても「あーニチアサってこういうとこあるあるw」みたいなつい笑って許しちゃうところはあったんだけど、『OQ』以降明らかにその受け止め方が変わって「これもまた仮面ライダーという芳醇な歴史の1ページ……」みたいに、いままでよりも「凹」部分を積極的に受け止めにいっちゃうような。そういう心境の変化は確実にあって。
 
 それは良いことだとは思うんです。結局、そういった凹部分は絶対に生まれてしまうし、それを喜ぶとまでは流石に言えないけど、そういう部分が出ちゃう見えちゃうのもちょっと嬉しいよね?っていう態度で作品に付き合えるのは、すごく豊かで楽しいことだとは思うから、この変化は私すっごく良いと思ってるんスよ。マジで。
 
 ……っていう入りだからもうわかると思うけど、『スーパーヒーロー戦記』、基本凹です。だけどね!だけど、私はちゃんと感動して泣いちゃってるし、面白い/つまらないって軸で分けるなら、完全に「面白い」側ではあるんですよ!
 
 歴代の戦隊とライダーが各作品ごとに一冊の本になって本棚に収められている、まぁここで「戦隊は本の装丁が統一されてるのに、ライダーはバラバラ」っていう完全に自虐ネタも入ってるんだけどさw
 その本が黒幕の手によって全部こうぐちゃぐちゃにさせられてしまうわけですよ、それで例えば『ゼンカイジャー』世界に『セイバー』のキャラクターが紛れ込んでしまって、実際その本も「ページを開いていくといきなり別の作品のの1ページが出てきたり」する。これカットアップ・メソッドだ!というかページ単位だからフォールドインのほうが正確なんだけど、1900年代中盤あたりから出てきた「偶然性の文学」であるカットアップがいきなり行われていて。
 
 それでそのぐちゃぐちゃに混ざり合った世界に謎の青年があらわれて、変身したヒーローたちをスケッチしだすんですけど、この青年が何を隠そう「若かりし頃の石ノ森章太郎先生」で。
 でこの石ノ森先生、ヒーローたちの姿を「すごい、かっこいい!」と言いながら「でも僕の書きたいのは、これとは違う」って言い出すの。
 
 いやこれ新しいライダーが始まるたびに出てくるテンプレ揶揄の(というか本当は「そういうテンプレでの揶揄、言われるよね~」っていう「誰もそうは言ってないけど先に否定者を想定してしまっている」やつなんだけど)「石ノ森先生が草葉の陰で泣いている」を公式がマイルドに繰り出してきてるやつじゃん!
 こんな自己言及ずるない?だってもう「あの頃とは違うことぐらいわかってる、それがどうした」って開き直りではあるわけよ。そういう気持ちで毎年毎年新しい戦隊をライダーをやってるのは知ってるけどさ、そこに石ノ森章太郎を噛ませてくることで、その開き直りっぷりが一段あがっちゃうというか。
 
 でもここで石ノ森章太郎が言う「正義だけじゃなく悪も、そしてその二つを持つ人間を描きたいんだ」がさ、それって『ゴレンジャー』と『仮面ライダー』だけじゃなくて、例えば『キカイダー』とか『サイボーグ009』とか、その他諸々の石ノ森作品が視野に入ってくるし、そこには「あの頃とは違う。だけど違うから描けるものがあるし、変わっていかなければ伝えられない」っていう「いま、この戦隊/ライダー」を強く自己肯定する部分もある。
 
 だからそこには伝えたいものを形式やフォームに囚われず、更新しながら、それでも変わらないものがあることを強く意味していて……それを支えるのが「仮面ライダー1号、本郷猛」と「ライダーで作家の神山飛羽真」って配置がキマっていて。最初にあった意志は変わらない(本郷猛)と、いまも新しく書き綴り続ける(神山飛羽真)、このふたつの軸によってスーパーヒーロータイムは続いて行く。
 だから『OQ』が「凸凹の肯定」なら、『ヒーロー戦記』は「過去と未来の肯定」で。「瞬間瞬間を必死で生きてる」を踏まえた上での「それがあった過去も、それが続いて行く未来も、大切なんだ」っていうことをこう言い切られちゃうとね……やっぱ「あぁこれまで見てきて良かったし、これからも見ていこう」って気持ちに改めてさせられるっていう……なんか騙されてる感じもあるんだけどwそう思って、やっぱこうツーっと涙がですねw出るんですよ。
 
 あとね、今回の敵役が「もうネタギレだろ」みたいな超メタな攻め方してくるんですけど、ここにね最初のほうでいったカットアップ(フォールドイン)が効いてくるの。
 私が好きな小説家のウィリアム・バロウズが、この人はカットアップ技法を使った作品を残しているんだけど、そこでね「現在をカットして繋ぎ合わせたものから、未来が漏れ出してくる」みたいなことを言っていて。この『ヒーロー戦記』歴代の戦隊/ライダーが総出演してるから、本当にごちゃっとしてて。だけどそのはちゃめちゃなはずのカットと繋ぎ合わせから「未来」が生まれてくる
 その偶然性はそのまま「瞬間瞬間を必死で生きてる」でもあるし、同時に「過去にあったことが、未来を呼び込む」って形になっていて、たぶんそんなこと狙ってねぇと思うんだけどw流石にwいやでも、だからこそ生まれる「意味」的なものがここにはあるように思えるんですよね。
 
 謎空間で石ノ森章太郎と神山飛羽真が繰り広げる会話がテーマ部分だったり、雑に処理される歴代の戦隊/ライダーの名乗りだったり、決して優れてる作品ではないです。だけでもずっと見てきた/これからも見ていく人間にとっては、どうしても胸に来るものがありました。
 だからこれオススメはしないです。だってこの作品が向いてる人って「別に勧められようが評判悪かろうが、とりあえず”春映画(概念)”を観に行く」って人だもの。見た方がいいひとは勝手に自分で観に行くでしょ?
 そういう作品でした。私は好き。

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 次回は『返校 言葉が消えた日』評を予定しております。

 この話をしたツイキャスはこちらの16分ぐらいからです。


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