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一週遅れの映画評:『すずめの戸締り』そして、ここからは恋の話を。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『すずめの戸締り』です。

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 あ~~~だから先週、あんま乗り気じゃなかったんですよぉ! 『すずめの戸締り』でやることに。
 
 いや、違うんですよ。作品自体はまぁ面白かったの、ただ、なんというかこの一週間でもう歯形だらけじゃん! あり得ない速度と量で『すずめ』論が色んなとこで公開されてんだもん。ここまで来るともう「自分の話すことが誰かと被ってたらどうしよう」って心配することすらバカバカしくなってくるね。
 だから今日まで他の人のテキスト、なんも読んでないです。今日のキャスが終わったらやっと読める! って感じ。
 
 とはいえ、こうなんとなく反応を伺ってるとそれぞれ違う論点を繰り出していて、どーやら私が喋ろうと思ってることも大丈夫みたい……でね、そういう状況になってるのって、たぶん理由があるんですよ。
 
 まぁこの映画って「震災」を大きく取り扱っているじゃない。一番大きな括りで言うなら「震災映画」ですよ。だけど他の縦軸、恋愛映画だったりロードムービーだったり、伝奇オカルトでもあるし、地方/東京の比較もあれば親子/家族関係の映画でもある。そういう部分がたくさんあって、正直この作品に対して語り始めようと思ったら、どこからでも入っていけるんです
 だけどそれぞれの要素が実は結構バラバラで、うーん、それぞれの要素がお話として「起承転結」とか「序破急」の構造になってない……って言うと厳密には違っていて「起の部分はデザスター映画とロードムービーで」「転は地方/東京の比較と(疑似)親子関係で」みたいな感じで、担ってるパートと描かれているジャンルはあるけど、ひとつのジャンルで頭からお尻まで筋が通ってるものがない
 
 これはね、決してマイナスポイントではないんですよ。たとえば頭の中で『すずめの戸締り』のあらすじを思い返してみることは、それほど難しくない。こんなよく見るとバラバラなのに、なぜかちゃんとまとまったストーリーとして成立してるって、めちゃくちゃすごいことなんです。この作品のストロングポイントはそこだと思うんですよね
 そしてこれについて話そうとすると「どの要素をピックアップする?」って選択からまず決めないといけない。例えば「震災を軸に、地方/東京とオカルトを混ぜ混ぜして――天皇論、キミに決めた!」っていう……すいません、いまポケモンの新作やってるので。
 
 で、この構造って実際の「震災」とものすごく似てるんですよ。あれだけ大きな災害の影響って、絶対に単一の事象では語れないわけですよ。まずその悲惨さがあって、そこからの弔いと復興がある。少し時間が経てば復興と切り離せない経済の問題が出てくる。それは当然のように政治の分野に入ってくる。かと思えば原子力発電所と放射能だって重大な論点だ。ちょっと落ち着いてきたら文化のことだって考えなくちゃならない。
 そのすべてを網羅なんてできないから「じゃあ私は弔いと文化の話をするわ」とか「それなら僕は政治と放射能だ」って、自分の語れること/語りたいことをやっていくしかないわけですよ。そういった現実の状況と、映画自体の作りに近いものがある。
 そういった意味でも、これは「震災映画」であると言える
わけよ。
 
 震災、って言ってもこの映画では2つの側面があるじゃないですか。つまり311の「もう起こってしまったこと」としての震災と、要石が無くなったことによる「これから起ころうとしていること」っていう2つが。
 それでね、たぶん日本人のかなりの割合が「もしあの時に戻って、自分の犠牲があれば地震を止めれるとしたら、やる?」って選択肢を出されたら、たぶんやってしまうと思うんですよ。少なくとも私はそう考えちゃう。そして強弱はあれど、あの時この国にいた人はトラウマみたいなものがやっぱりある。
 
 ただ、たぶんこの選択肢に「やる」って思えるのは、恐らく私が直接の被災者じゃないからなんですよね。
 運よく直接の被害は何もなかったし、東北地方に住んでる知人もみんな無事で……ひとり災害のドタバタが原因で奥さんの浮気が発覚したっていう別方向で悲惨な事例はあったけどwまぁおおむね知人の範囲までは大丈夫だったわけです。だからこそ「あの時に戻れたら」なんて仮定を口にすることができる。
 でも実際に何らかの被害を受けた方にとって、それは乗り越えた/乗り越えてる/乗り越えられない悲劇なわけで、そこにファンタジーが簡単に入りこめるわけもない。それは仮定なんかじゃ語れないリアルな問題なのだから
 だけど「もし次があったら」っていうのは共有できる……まぁ当然ね、そこに込められた切実さには違いがあるんだろうけど、それでも未来の話なら同じ前提に立つことができる。だから『すずめの戸締り』では2つの震災が必要だったんですよ、「もう起こってしまったこと」と「これから起ころうとしていること」が
 
 で、で、で、それと並列で語られるのが恋の話なわけですよ。ものすごく単純な「好きな人と一緒にいたい」って動機ですずめは東京から東北まで向かっている。
 これもさ、まぁかなりの割合の人が共感できることですよね。しかもそれは「過去」であると同時に「未来」でもある。多くの人が自分の過去にいた「好きな人」がいて、そして未来にもそう思うであろう相手が存在する可能性がある。だから恋の話も当たり前に「もう起こってしまったこと」であり「これから起ころうとしていること」なわけですよ。
 ……おう、いま言ってって気づいたけど、私は「現在進行中な人」の存在をまったく想定してねーな? うるせー! 揺れたら机の下に隠れんだよ!
 あー、でも話の流れと全然関係ないけどさ、東北に行く途中で緊急地震警報が鳴って。すずめが「ミミズ」を探すため、ガーッと丘を登るシーンあったじゃん? あそこで私はめちゃくちゃゾッとして……あれってさ「ミミズを探すため」って理由を知らない人から見れば”地震が起こったとき、高台に避難する人”なんですよね。あのシーンが私は一番この映画で「311の震災」を感じたところでした。
 
 それで、えーっと。そう、だからこの作品って震災と恋を同じ俎上に上げようとしている。その上で旅の目的を見ると、前半の東京までは「災害を食い止めたい」だったのが、後半の東京からは「草太さんに会いたい」にガラッと変わってるわけですよ。つまりそれって「ネガティブなものを無くす」から「ポジティブなものを得る」に変化している。震災と恋を同じ場所に持ってきて、巧妙に交換させることで物語をネガティブからポジティブなものに入れ替えている
 
 それが『すずめの戸締り』が持つ、バラバラなはずなのに何故か「ちゃんとまとまっている」と感じさせるストロングポイントで、それをしれっとやってることが一番すごい部分だと思いました

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 次回は『ザ・メニュー』『ザリガニたちの鳴くところ』評を予定しております。

 この話をしたツイキャスはこちらの15分ぐらいからです。


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