見出し画像

一週遅れの映画評:『ミュータントタートルズ:ミュータントパニック』優柔不断に花束を。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かして配信で喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『ミュータントタートルズ:ミュータントパニック』です。

※※※※※※※※※※※※

 『タートルズ』はですね、なんか私の涙腺をやたら直撃することがあるんですよ。2016年の『ミュータントタートルズ:影<シャドウズ>』もなんだけど、いまだに思い出し泣きするのが日本では2014年に放送されたテレビアニメ版の第1話で。
 そのテレビアニメ版では、薬物の影響で亀のミュータントになったタートルズは、15年間ものあいだ地下の下水道で人目を避けて暮らしてきて、そこって完全に閉ざされた世界なわけですよ。そして15歳、思春期になった彼らは「外の世界」を渇望する。それって単に「狭い下水道はイヤだよ~」ってだけじゃなくて、自分たちの持ってる可能性とかを試したいって話なのね。
 それはネズミのミュータントであり、彼らの父親でもあり師匠でもあるスプリンター先生から「外は危険だ。失敗を知らないお前たちは、まだ経験が足りない」って言われた時に「じゃあ失敗するために、外へ行かせてください」っていうレオ(レオナルド)からの反論からもわかるように、彼らにとっては「失敗すること」すら得難い可能性のひとつなんですよ。
 で、初めてマンホールから出た外の世界は、目立たないようにスラム街の端っこで。壁は落書きだらけ、生ゴミは山と積まれて、ホームレスがダンボールに包まって寝てる。そんな状況を一目見てマイキー(ミケランジェロ)は「わぁ! 外の世界はなんて美しいんだ!」って叫ぶ、もうめちゃくちゃ汚いスラム街ですら、彼らにとっては光り輝く可能性に満ちた世界なんですよ。
 
 ……っていうのが2014年に日本で放送された、本国では2012年版の話なんだけど、今回の『タートルズ:ミュータントパニック』にも似たようなシーンがあるんです。
 初めてできた人間の知り合いであるスプリングに連れられて、深夜の高校に忍び込むのね。まぁそんなにお行儀の良くない学校だから、それなりに荒れてるわけ。
 汚いスニーカーが脱ぎ捨てて廊下に転がってるし、ゴミ箱パンパン。なぜか水道が壊れていて、出っ放しの水が溢れてる。ロッカーには当たり前のように落書きされてて、それを見たドナ(ドナテロ)は「これって『進撃の巨人』だよね!」ってテンション爆上がりしたりw
 ここでもタートルズたちは、決してキレイとは言えない学校の様子に大喜びするんです。「普通に考えたら喜ぶような場所じゃあないのに、タートルズは大はしゃぎ」ってシチュエーションは一緒なんだけど、その理由はさっき話したこととはちょっと違っているんですね。
 
 と、いうのも。この高校に忍び込む前、タートルズたち(ていうかラファ(ラファエロ))は「やれやれ。死ぬときに見るのもお前らの顔かと思うと、うんざりするな」って悪態をついていて、他のメンバーもそれに同調する。つまり彼らが「うんざり」してるのは、この閉じた人間関係。4匹の仲間とスプリンター先生だけしか知らないまま、死んでいくんだろうなぁ……って感覚がある。
 だから高校に忍び込んだとき、そこに「他の人間たちが生きている痕跡」を発見できるのが嬉しくて仕方ないのですよ。そこに転がってるスニーカーは「さっきまで誰かが履いてた」ものだし、ゴミ箱いっぱいのゴミは「誰かが捨てて、明日には回収され、またいっぱいになる」って生活のサイクルだし、壊れた水道にされてる応急処置は「近いうちに直す」ってことで。しかも『進撃の巨人』の落書き! 自分が読んでたり見たりしてる作品を、「この人も見てる、そして絶対好き!」って思えることの貴重さったらないわけですよ。
 だから今回タートルズが感じているのは「コミュニケーションへの渇望」で、だからこの生活=他の誰かがいる痕跡が嬉しい。しかもこのとき初めてエイプリルっていう「人間の知り合い」ができたばっかりだから、「もしかしたもっと友達が増えるのかもしれない」って夢見れる。
 いままで本当にごく限られた人間関係しか持てなかったティーンエイジャーたちが、「友達ができるかも」ってはしゃぐ姿に、私はめちゃくちゃ泣いてしまうんです。
 
 だけどその裏で、街ではある陰謀が進行している。
 スーパーフライっていう人物が、最新鋭の化学装置を次々に強奪している。どうやらそれらを使えば大量破壊兵器が作れてしまいそう。それを阻止するため、最後のひとパーツをタートルズが運んで囮になり、スーパーフライと対面するんですが。
 そのスーパーフライ、名前通り「蠅のミュータント」で。その部下もサイとか、トカゲとか、コウモリとか、わぉレザーヘッドじゃん! 元気してた? って感じで、タートルズと同じミュータントたちなのね。
 彼らは迫害されてきた恨みで人間を全員ミュータントに変えてやろうと息巻いている。もちろん同じミュータントであるタートルズも誘われるわけですよ。仲間として。
 
 半分は侵入捜査として、半分はマジで迷いながらタートルズたちはスーパーフライのアジトに行ってしまう。他のミュータントたちはイイ奴らだし、ウマも合いそう。確かに受け入れてくれるかわからない人間の世界よりも、こうやって最初から分かり合えるミュータントの世界を作ったほうが上手くいくかもしれない……。
 そう思いながらも、タートルズたちは恐る恐る言うんですよ、「その、なんていうか、全滅はちょっとやりすぎかな……て」。
 
 それに対してスーパーフライはキレるんだけど、意外なことに彼の配下にいたミュータントたちは、タートルズに賛同するんですよね。
 ここね、ちょっと世代間格差みたいのがあらわれていて。スーパーフライもだけど、タートルズの親代わりであるスプリンター先生も「人間は危険だ」って主張なのね。というのもスーパーフライとスプリンター先生は、最初にミュータントへと変異した第一世代みたなので、そこで散々人間に苦しめられた。一方でタートルズ世代は、最初から隠れて生きることを教えられて来たから、実はそこまで人間に対して悪感情は持っていなかったりする。
 そういう違いも含めて、彼らがちょっとフワフワしてる。「人間絶滅やってやんぜー!」ってテンション上げてみたり、「でもそこまでするのはなぁ」って言われてしまうと「確かに」みたいになる。ここが私はすごく良いところだと思っているんですよね。
 
 こう、ミュータントって「人間とは違う」から迫害されているわけじゃあないですか。だから「復讐してやる」って思うのもわかる、だけど「殺すのはやりすぎかもなぁ」って二の足踏む感じもわかる。「ぶっ殺す!」て仲間内で騒いでると楽しいし、なんか後に引けなくなってくる。だけど「それまずくない?」って誰かが言い出すと「だよねぇ」って冷静さもちゃんと持っている。
 これすごく人間ぽいじゃないですか! この「なんかフワフワしてる」ことで「あっ、人間もミュータント(=マイノリティ)も変わらないんだ」って視聴者に気づかせていくところが、超スゴイんですよ。
 
 それでも「うるせー! 人間は殺すんだよォー!」って吹き上がっちゃうスーパーフライは、暴走して暴れ出す。ここでむしろ初心貫徹する態度が「分かり合えなさ」へと繋がっていくところが、「柔軟に思想を修正しながら生きる」ことができる人間もミュータントも変わらない「良い生き方」への指針になっている。
 結局、巨大化したスーパーフライをタートルズだけじゃなくて、他のミュータントたちに人間たちも協力して撃退する。
 
 そうやって一緒に協力したミュータントたちも認められ、人間との生活がはじまる……ってハッピーエンドなんですが。
 ここにちょっと怖いところが残っている。それまでは迫害されてきたミュータントたちが、「協力して一緒にスーパーフライを撃退した」ら受け入れられた
 これって考えようによっては「役に立つから、許されている」とも言えるわけですよ。ただそこにいるだけで認められる、あるいは「多少まちがったことをしてしまうミュータント」までをも受け入れる社会か? っていうと絶対にそこには疑問符がついてしまう
 どうしても私たちはマイノリティに対して「あの人たちは良い人だから」みたいな理由で受け入れようとしちゃうけど、でも本当は悪人だろうがなんだろうが関係ないじゃないかと。「役に立つ」から受け入れるってのは、排除する気持ちと表裏なんじゃあないの? という部分で刺してきてるようで。
 そういった点を含めて、すげー良かったです。
 
 それでは今日はここまで。本日はいつもとEDを変えてお別れしたいと思います。
 
 Superflyで「タマシイレボリューション」です。

※※※※※※※※※※※※※

 次回は『BAD LANDS バッドランズ』評を予定しております。

 この話をした配信はこちらの15分ぐらいからです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?