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一週遅れの映画評:『グリッドマン ユニバース』繁殖する虚構、あるいは恋。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『グリッドマン ユニバース』です。

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 なんというか「なんてフィクションを作ることに対する信頼に溢れてるんだ!」という作品でしたね。そしてこれは最後にちゃんと説明するんですが、めちゃくちゃ『電光超人グリッドマン』でしたよ! あの特撮版『電光超人グリッドマン』と、完全に繋がってる作品である、とはっきり言えるの。
 
 えっとね、なんだっけ最後のボス。あいつがアレクシスを……あ、いつも通りネタバレにいっさいの躊躇無しでいきますからね? 大丈夫ですね?
 
 そう、でアレクシスを取り込んで無限の命を得る。でそれの撃退法が「とにかく長時間、大出力のビームを浴びせる」っていうめちゃくちゃパワープレイなんですけどw それが有効な説明として「実体を持っている以上、無限に再生できたとしてもそれを繰り返すうちに必ず劣化して倒せる」って言われる。
 まぁなんか微妙に誤魔化されてる気がしなくはないですが、いわゆる「マクスウェルの悪魔」的な感じなんでしょうかね。破壊されても再生される、言い換えればエントロピーが増大したものを元の状態に戻す能力を持っている。それは一見無敵に見えるけど、「元の状態を知っている」という情報にもエネルギーが必要だから、ひたすら繰り返せばブチのめせるぜ! みたいに私は理解した。
 
 まぁそういう設定考証は置いといてですね。「実体があるものは劣化する」の裏は「実体がないものは劣化しない」になるじゃあないですか。実体があるをこうやって映画評の俎上にあげる感じに翻訳するなら「現実」で、そうなると「実体がない」ってのはつまり「虚構」ということになるわけですよ。
 現実は繰り返すうちに劣化していくけど、虚構は何度繰り返しても劣化しない
 
 でね、作中でみんながグリッドマンの姿を絵に描くシーンあったじゃないですか。かなりへなちょこな絵がいくつも登場する場面が。でもたぶん絵を描いた登場人物たちの頭の中にはちゃんとグリッドマンの姿が浮かんでるわけですよ、そのイメージ段階ではちゃんとグリッドマンが思い描けてる(じゃなけりゃ飛鳥川ちせの描いた上手なグリッドマンの絵を見て「それだ!」とはならないわけですから)。だけど手を動かして実体を持った絵に変換しようとすると上手くいかない、劣化してしまう。
 それでもですよ。グリッドマンが復活するときに、こうあらゆるバースの”グリッドマン”がひとつに重なり合っていくシーンで、その下手くそなグリッドマンの絵も”グリッドマン”として回収されていく。これって私は二次創作というかn次創作に対する強い肯定だと思っていて。
 
 つまり二次創作において絵の上手い下手とか、そんなものは大した問題じゃあないと。その奥底、それを描いた結果の実体なんかよりも、その手を動かそうとした心の中、つまり虚構を受け止めてそこから表現しようとした気持ちに貴賤なんか無い。そしてそれは何度も何度も繰り返したって、決して失われたり劣化したりなんかしない!
 そういうメッセージが『SSSSグリッドマン』『SSSSダイナゼノン』っていう、ある種の二次創作とも言える作品から発せられることの強さとか意味に私は感動してしまうんです。
 
 その上で、アノシラスが言ってるわけですよ。「人間は虚構を通して繋がれる唯一の生き物だ」って。フィクションを作ったとき、その作品を通して私たちが何を受け取っているか? それは作品の奥にあるメッセージだったり想いだったり思想だったりで、そういった人の中にある”虚構”を作品を仲立ちにして、受け止めることで自分の中にある”虚構”と繋がっている。
 もちろんそれが上手くいかないことなんて山ほどあるわけですよ、どうしたって作品は(ヘタなグリッドマンの絵のように)実体を持ってしまうのだから。それでもその奥にある虚構は劣化しないんです、たとえ何度繰り返しても。
 こんなにも作品を、フィクションを描くことを強く肯定してる。そしてその中にある”虚構”で繋がっていけることを信頼しているんだなぁ、と思いました。
 
 それでね。この作品では最後に、めちゃくちゃ強烈に「虚構を通して繋がる」ことを描いているんですよ。アノシラスは虚構の例として哲学とか国家とかお金とか、色々並べましたけど、この『グリッドマン ユニバース』で出てくるすっごい大事な虚構については言及していないんですよね。だってあまりにも目の前にありすぎるから。
 それは「恋」ですよ「恋」! 恋心ってやつは、実体のない、形のない、”虚構”なわけです。それでもそれは確かにあって人と人を繋げていく。だから「虚構を通して繋がれる唯一の生き物」であると同時に、すっごい単純な話にしますけど恋をしてセックスして子供を作っていくように「虚構を通して継承できる唯一の生き物」でもあるんですよね。横方向の繋がりだけじゃなくて、縦方向の繋がりにも広がっていく。
 そしてそれは同列に並べられた「作品を作ること」もそうで。作品を通じた想いの伝播は、横だけじゃなくそれを受け取った人が、また何かを作って、そこからさらにそれを受け取った人が作品を作って……って縦に繋がっていくわけです。
 
 そういった想い/虚構の連鎖として、いまの時代ってSNSだったり動画配信とかでこうやって作品を発表する場が、比較的カジュアルにあるわけじゃないですか。それでこうなにかのきっかけでバズれば、そこから広い世界に飛び出していける。そういう実例がいっぱいあって……そういったなかで「自分はなにができるんだろう」「これからどうなっていくんだろう」っていう期待と不安ってすっごくいっぱいある。
 それが私には1993年当時『電光超人グリッドマン』を見ていたときに感じていた、コンピューターってものが発展して「これでなにができるんだろう」「これで世界はどうなっていくんだろう」という期待と不安に、ものすごく重なって見えるんです。
 そういった「期待と不安」って感情を『グリッドマン ユニバース』は、確かに『電光超人グリッドマン』から引き継いでいるのだと。だから最初に言った「めちゃくちゃ『電光超人グリッドマン』でしたよ!」って感想になりました。

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 次回は『D&D』こと『ダンジョンズ&ドラゴンズ』評を予定しております。

 この話をしたツイキャスはこちらの16分ぐらいからです。


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