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90年代洋楽の取材などスペースシャワーTVの裏舞台について聞いてみた


1989年のスペースシャワーTV開局の瞬間、前回インタビューに答えてくれたいとうせいこうと共にメイン司会を務めたのが、ちわきまゆみ。ミュージシャンとしてそのキャリアをスタートさせ、メディアを問わず活躍していたちわきがどのように初期スペシャと関わってきたのか?
混沌とした90年代の洋楽シーンの斬り込み隊長としての役割を担ったちわきまゆみとスペシャの蜜月とは?

☆89年のスペースシャワーTV開局特番では、いとうせいこうさんと一緒にメイン司会をされていました。                          当時はFAXを募集していて、最初によんだFAXが仙台の方でした。
「あ、見ている人いるんだ」と当時生放送で言っちゃったことは覚えています。
誰も見ていないと思って怖いもの知らずで、しゃべっていましたね。

☆開局当初はどんなVJの方がいましたか?
FM802のパーソナリティーのヒロ寺平さん、シャーリー(富岡)さん、藤原ヒロシさん、加藤賢崇さんなどいらっしゃいましたね。

☆あの頃のスペースシャワーの番組を一言で表すとどうですか?
スペースシャワーって「本音」の番組だったんじゃないですか?
今で言うところの忖度とかそういうのはほとんど無いというか、そんな世界とは無縁の場所でした、あのアンクレー(スペシャ最初の拠点)の中は。
特に初期スペシャはそうだったと思うんですよね。
皆が自分の好きなことを好きなように表現していくっていう場だったので、なんかこれ言っちゃまずいなとか何も自分は考えてなかったですね。
今だったら絶対言えないよね、なんだろう私も大人になったんだな。

☆開局してすぐにスタートしたちわきさんの番組「TREASURE & PLEASURE」ってどんな番組だったんですか?                      通称トレプレと呼ばれていました。UKがメインの洋楽番組で、オルタナティブっていう言葉がまだ確立する前、グランジとかの前夜でした。
特にイギリスからまた新しい波が出てきたところでもあって。例えばジーザス・ジョーンズ。
その後、布袋(寅泰)さんにもすごく影響を与えるデジタルロックのパイオニアとも言われていて、そんなロックをすごく好きだったんです。ちょうどその辺りのイギリスのムーブメントがアメリカに伝わって行って、シアトルからニルヴァーナのグランジの波が生まれる時代でした。
番組は「まだ知られてないけれど、楽しくお宝を発見しよう!」みたいな感じをやっていました。

☆トレプレをスタートした経緯はどうだったんですか?            スペースシャワー前会長の中井さんに声をかけられて、スペシャの番組をすることになりました。
中井さんから「お前企画書を書け!」と。「企画書とは何ですか」と聞いたら「詳しいことはプロデューサーに聞いとけ」となり、プロデューサーから「じゃあこれ見本な」と言って他の企画書を渡されて、企画意図・企画趣旨・キャスティング、あとなんちゃらかんちゃらって。
で、それを書いて出したら「はい、採用!」みたいな。それが「TREASURE & PLEASURE」です。UKやUSAの新しい音楽を探しに行きたいっていう番組。

☆番組をやっていて印象に残っていることはありますか?
UKやUSAで超売れてるっていう人じゃなくて、その後ビックになるようなアーティストのインタビューもレコード会社のみなさんのおかげですることができました。
ある時、プライマル・スクリームのインタビューを取りに行ったんですが、当時まだ1stが出たくらいの頃だったんです。超ご機嫌な雰囲気のボビー・ギレスビーさんへのインタビュー。ディレクターが全然面白がっちゃって止めないし、音楽以外の話を揺れながら説明してくるんですよ。プライマルはすごくサイケデリックな部分強いなと思ってて、そういう話を聞きたかったんだけど・・・。
そんなインタビューで1時間くらい回して、ボビーは「今日はたのしかたっよ」って言ってそのままご満悦で帰って行きました。私はこれ使えるだろうかって思ったけど、そのまま使っているんじゃないかな。

☆ニルヴァーナのインタビューもありましたよね?
当時スペシャの番組タイトルのロゴとかイラストを制作してもらっていた、
今はNYで画家として活動している下條ユリさんがロンドンで知り合った映像チームがいて、その中にサイモン・テイラーっていう若者がいて、今はTOMATOという映像制作の中の1人ですが、そのサイモンと、主にカメラを担当するマットっていう子と、もう一人編集を得意とするダークの三人がチームだったんですよね。
彼らがスペシャの最初のステーションジングルとかIDを作っていたんですね。
それで当時スペシャからグラストンベリーのフェスにカメラを1台送るから、彼らに行ってきてくれと。一緒にスペシャのロゴの入ったマイクキューブを送って、ニルヴァーナへのインタビュー取材をお願いしたんですよ。

☆1993年からは「BUM TV」という番組がスタートしますね
藤原ヒロシくんとアンクレーの中から二人だけでやるっていう時代から、六本木のWAVEに行ってからは、ヒロシくんはYOUちゃんと。私が萩原健太さんというように「BUM」が横枠になるんです。最初の頃、アンクレーからの生放送で、ディレクターが肝心なタイミングの時にいないわけですよ。トイレに行っていて。それで代わりにスタジオで撮影しているカメラマンがキューを出すんです。技術スタッフの方々は百戦錬磨の方々でやっているからなんとかなっていた。ディレクターは終わった頃に戻ってきたり(笑)
「BUM」は素晴らしいカルチャー番組だったと思いますよ。
当時「ASAYAN」とかが多分メジャーな方のテレビでは有名でしたが、「BUM」は同じくらいカルチャー的には掘り下げた大変良質な番組だっと思います。
私はトレプレ的なところから派生するUKや、そのころはグランジとか割と確立されつつもあったので紹介していました。ヒロシ君は本当に何でも知っているから、一緒に話しながら、お互いの好きなものを同じ箱にぶち込んでいく。来週これやろうかとか、いつかこれやろうかとか誰を呼ぼうかとか、そんな話はしょっちゅう、本番中待っている間とか話してたりするし。

☆番組スタッフとの距離も近かったですか?
ヒロシ君はスタッフと一緒にバスケチーム作って、スリーオンスリーの区の大会に出てた気がする。それで私と下条ゆりちゃんとファンキー・エイリアンの喜多布由子ちゃんとかと、みんなでポンポンを作って応援に行ったよ。確かそれも撮影して放送したんじゃないかな。
それからスペースシャワーは色々なタイプのディレクターがいましたね。
こんなこともありました。
TOMATOのサイモンたちが来日して誰かのMVを制作していた夜中の時間、スペシャの編集室で編集している途中のリフレッシュメントで、隣の小学校プールに忍び込んで泳いでたんですね。それで通報されたこともありました。
ちなみにTOMATOは面白かったから日本のレコード会社に売り込んでたんですよ。
彼らが作ったスペシャのジングルとかを知っているディレクターに見せて。
それで結構いろんなビジュアル系のバンド、マルコシアス・バンプや、ZI:KILLも撮ったし、SALON MUSICもとったし、結構日本のバンド、私のパブリックリレーションズで何個か紹介して撮ったんですね。

☆いま考えるとすごい人、結構出演してますよね。              ファッションコーディネート対決とか言って視聴者の人に出てもらって、その審査員にポール・スミスがスペシャに出ていました。なんかプロモーションを兼ねてたんだろうけど「BUM」に出ている回がありますよ。

☆番組では海外の様子も伝えてくれていました
さっきはグラストンベリーにカメラを送りこんだという話しでしたが、その翌年には今度は先にカメラはマットのとこに送っとくけど、テープを私が持っていくんですね。単身ロンドンに行って帰りに撮ったテープを持って帰って来いってことなの。スペシャの無茶振り取材ね。
ちなみにその時の番組プロデューサーは現スペースシャワーの社長、近藤さんです、無茶をさせてましたね(笑)
充電器とバッテリーとテープを持ってイギリスに行くわけですよ1人で。
90年代頭ですね、いくつかのバンドを取材しに、ロンドンを中心にバースとか何日かかけてライブとインタビューをTOMATOのメンバーとロケをしてました。その時にフリッパーズ・ギターがちょうどロンドンレコーディングしていて、それで私の滞在先に電話かFAXで知らせが入って、いついつなら空いてるからインタビュー取れそうだと、携帯ない時代だから。
二人との待ち合わせが、セントラルパークのクイーンズゲイトっていう門があって、そこを入った一つ目の大きな木の下で会いましょうというデートみたいな感じで。
こっちもサイモンやマット、ダークに来てもらってそこでインタビューしたんですよ。
他にもトレプレで単身突撃ロンドン取材でいくつかのイギリスのバンドを撮ったかな。
ある現場ではカメラ担当のマットが、スペシャのロゴの入ったハンディカムを持ってぐっしゃーってなってる会場の中を「うりゃーっ」て客席の中に入っていって、「まじ!?そのカメラでいく?」みたいな。私は2階からうっそーと思いながら「これカメラ壊れたら終わりだ」って思ってました。でもすごく良い映像を撮影していましたね。自分の中でも良い勉強になりました。

☆90年代の音楽シーンはどういう印象ですか?
すごい勢いがあったんじゃないですかね。特に洋楽マーケットもすごく大きかったし。
やっぱりそんな中で、グランジの後にオアシスとかが出てくるじゃないですか
スペシャでもオアシスの貴重なライブを撮ってますし、多分クアトロとかで撮影したんじゃないかな。初来日のものを。
その後、だんだんスペースシャワーも業界の方に認知されましたが、最初は、けんもほろろみたいな感じですよね。当時は一回一回借りて流してましたから最初の頃はMusicVideoを使用するための苦労が多かったですね。
MVもスタッフがかけたいものをレコード会社にお願いして借りに行ってました。
だから私が「来週どうしてもこれかけたいな」、「今これが流行ってるみたいなんだよね」って言ってかけたいものをスタッフに言って借りてきてもらっていました。
だから今に比べたら手間と熱量がないとできなかったかもしれないですね。
応援してくれる人が出てきたりして、そういう人に支えられて、番組が羽ばたいていく感じ。だんだんミュージシャンの中でもスペシャに出たいね、みたいな。
スペシャって最初はミュージシャンの人には知られてなかったけど、
「BUM」が横並びの頃にはだいぶミュージシャンの皆さんにWAVEの1階サテライトスタジオが周知されてきた第1期で、良くなってきたね、やったねみたいな時代だったんじゃないかな。

☆ちわきさんにとってスペースシャワーってどんな会社でした?
私は女子校だったので中学高校大学と、だから共学ってこういう感じなのかな。
なんか部活って感じだったよね。男の子はくだらないことばっかりやってるでしょ(笑)
エアガンを会社で撃ってたり、ギター弾いて寝てたり、ゲームやりすぎてたり、もう家族だよね。
その中で、ちゃんと社員に細かい注意をしてくださる方がいたからよかったんだと思います。そうじゃなきゃ今みたいな感じになれなかったと思いますよ。一体感があったのも、そういう温かい叱咤があったからだと思います。
いい意味でずっとやばいですよね、開局して私がいた頃のあの頃から。
サテライトでやるなんて、ほんと凄いなって感動しましたもん。
あのアンクレーの地下の小さくて暗いスタジオ。やっぱりお金がなかったから暗かったのかも。初期のスペシャってだいたい暗いよね。螺旋階段の上のところにいつもお塩が置いてあって、一回置いたら放置してるから埃とか溜まってきちゃって「それじゃあ意味がない!清めてねーじゃねーか」と思ってましたけど。
いい意味であんな会社はないと思いますね。

☆叱られたりってありました?
これやっちゃダメとかそれはないんじゃないですか。
ただ、やるならちゃんとやれって感じでしたね。ダサくなると怒られたんじゃないですか?
あとお金使いすぎたら怒られたかも。のちに聞いたところ、スタッフはちょいちょい信じられない値段のお弁当を頼んでいたみたい(笑)
人間関係も面白いですよね。表に出る人だけが全てじゃないっていうか、みんなで等しくディレクターもADも出演者もゲストも、ぎゅってなってる。そこに上下とか、そういう序列が起こらなかったって言うか、だから若い子の意見とかも面白かったら使うし。
だからとんかつの配達のバイト君が面白いからADに雇っちゃうし。お店の名前が「とんかつ大和」だから、その子を大和っていう名前で呼んでいて、いきなり大和がADになっているんだもん、こっちはびっくりするよ。大和って本名じゃないし(笑)

☆最後にこれからのスペシャに期待することがあれば。
コロナ禍になって音楽業界が今すごい大変で元通りにはいつなるかわからないし、数年かかるんじゃないかって気もしているので、今こそスペースシャワーみたいな会社がアーティストの側に立って彼らが出せないってこともいっぱいあるじゃないですか?
それを是非出せる舞台としてメジャーな人にはメジャーな、でもすごくアンダーグラウンドでも面白いことやっているアーティストにまで皆さんに光が当たるようようになって欲しいなと思いますね。音楽がこれ以上悲しいことにならないように是非お力を入れていただきたいです。


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