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移ろいゆくことのありがたさについて。

物事が移ろいゆくことの真理を仏教では無常という。一般に無常ははかなさや、幸せも流されていくことの悲しみを言う。だが、移ろいゆくことはありがたいことだと私は思う。水は流れ続けなればあっという間によどみ汚れてしまうけど、流れてさえいれば常に清くあるように、常ならぬことで世の中はよどまずにいられるのだから。

この常ならぬ事実があるからこそ、私たちは自身の人生に絶望せずに済んでいる。現に幸せはなれてしまうけど、つらいことは残りやすいのは人間の性だ。

仮に全て予見できたらどうしよう。将来の幸せの結果はあっという間に消化してしまうのに、将来の不幸せは心の中に残り続ける。不幸だけ前借するようなものだ。しかも返せないと来た。つまるところ続く幸せはあっという間に終わってしまうのに、つらさだけはただただ続く地獄を見せるだろう。

ただ現実は何もかもが時の流れによって流されていく。いいことも嫌なこともすべてだ。

幸せな将来も知らなくていいし、先の不幸も前借しなくていい。どちらも勝手に目の前を過ぎていく。何なら今のつらさだってそのうち何処かにいなくなってしまうのだ。おかげさまで世界は不幸せだけたまってよどんでしまうことなく理由なくそこにある。

時が傷をいやすというけど、それは移ろいゆくことのおかげなのだ。皆の苦しみはすべて移ろいゆくことの流れに乗ってどこかに行ってしまうだろう。

ああ無常。だがその移ろいゆくことが私たちを癒しているように思えた。



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