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"わたし"の 在り処

世の中には色々な私がいます。人と楽しそうに話す私、人と会話することを拒否する私、アウトドアが好きな私、家に引きこもって本を読むことが好きな私。

どれもこれも話し口調も違うし、振る舞い方も考え方すらも違っています。でもどんな私だって周りの人はそれを”わたし”だと認めている。

これはいささかこの体の持ち主である私にとっては不思議なことでした。どこに”わたし”を見ているのでしょう?

考えてみるいくつか共通点がありました。私達(様々な振る舞いをする私の事)はどんなときでも唯一だけ変わらない好奇心を持ち合わせていました。どんな状況でも気になる対象は一緒でした。

その時気づいたことがありました。

私と似た人 と 私 の違いです。

私が似ているなと思うときは総じてその行動やそれによって引き起こされる結果が似ている時にそのように感じています。でも彼らは明らかにわたしではありません、それはなぜか、ひとえに興味を持つ対象がかれこれ微妙に異なっているのです。

例えば都市の光景が好きと言っても私は様々な建物の光の陰影が好きなのに対して友人は建物の形そのものが好きであったり等など…。

世の中のすべての物事の価値は一定です。これを歪め価値の重みをつけるものが、好奇心というものです。

そう、同じ風景を見せても先程の都市の例のように見ているものが変わって来ます。そしてそれによって引き起こされる結果がわずかに変わってきます。

おそらくわたしの付き合いのある人は私のそのような面をみていたのかなって。結局私の姿というものはあくまでも多面体の一部分を切り取ったに過ぎなくて多種多様な私達自体が本当の”わたし”の一部分でしかなくて、私自身が感じる私らしさすらそれの一部なんだろうと思います。


”わたし”  は直接目の見えない好奇心の中にいたようでした。





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