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小説「秘書にだって主張はある。」第九話
九 不穏
1月10日(火)0830 柊社
いつものとおり、始業時間前30分に出社した恭子は、社内の様子が、しきりに気になって落ち着かなかった。
いつもと何かが違う・・・。
こう言った社内の雰囲気の様なものを肌で感じ取るのも、秘書として必要な資質だと自分では、そう思っている。
そして、しばらくはそれが何なのかはっきりしなかった。が、しかしようやく、自分自身が社員の視線を受けていることに気がついた。
なぜ、自分に注目しているのか?本人達に聞くわけにもいかず、どうしようか思案していたところ、直子が、わざわざ営業部長のお茶の用意をほったらかしにしてまで、総務ブースに知らせに来てくれた。
「恭子、あなた道彦さんとお茶してたって本当なの?」
訂正する。直子は私的興味に従い探りにきた。
どうやら、先週末、道彦と面談したことが噂になっているらしい。
慌ててもしょうがないので、冷静になって考えてみた。まずは直子に聞いてみることにする。
「ねえねえ。道彦さんって、私は知らなかったんだけど、社内中で知られているほどの有名人なの?」
「そうねぇ。王大経済学部院卒なのに軍に入った変わり者で、30代前半、独身ってことぐらいだけれど」
「そういうことなのね。ありがとう。でも直子は営業部に戻って。詳しいことは、また今度お願い」片手を立てる仕草を軽く見せ、詳しく話せない今の状況を察してもらう。
「わかったわ」とりあえず身辺だけは静かになった。
さて、恭子は分析し始める。
面談の件が漏れた原因は、道彦を知っている誰かに現場を見られたか、総務部長が漏らしたかだけれど、総務部長の線は恐らくないだろう。
しかも今更どうしようもこうしようもない。
道彦が、社内でそこそこ知られているのは、道彦の学歴の高さと適齢期なのに独身であることが、その理由らしい。
もしかしたら、恭子と同様に、道彦の存在そのものを、知らないものも少なくないのではないか。だったら燃え上がった炎も消しようがあるか?
そして、仮に消せたとして、最後に、どれくらい影響が残るかだが・・・。
おそらく、繰り返して同じように面談を目撃されない限り、いずれ下火になるのでは・・・。逆に今、下手に否定すると藪蛇になってしまう可能性さえある。
したがって、今やらなければならないことは、「視線の無視」だ。それで十分と考えた。
そして、恭子は時計を見る。
始業時間10分前だ。総務部長のお茶を入れる時間は充分にある。
*
1月10日0910
始業後、早々に総務部長に呼ばれた。
「今、やっぱり相談役から、君に道彦と連絡を取らせるようにと、指示をもらったよ。面倒かも知れないがよろしく頼むね」
総務部長の想像どおり、相談役は、さっそく、軍、つまりは道彦に、働きかけたようである。
「あいつは今、北海道なんだろう」
「名刺をいただいておりますので、電話で連絡させていただきます。それで、相談役から具体的に、先方に対しての質問事項や提案の御指示はありましたか?」
「いや、なにもないよ」
「そうですか」
ということは道彦本人に対して、すでに母親から、軍の情報の開示などについて、無理難題な指示があったと推して知るべしだ。恭子の役目は、その後の情報受領役と言ったところだろうか。恭子は、けっこう理不尽な母親から道彦に対する扱いを、少々不憫に思った。
ただし、道彦の携帯番号は、もちろん自分のスマホのメモリー内に入れたままなので、恭子的にはなんら支障はなかった。自分はまったく困らない。
「承知しました。それではお昼あたりに連絡したいと思います」
「ところで、部長は、先日の道彦様と私の面談の件が、社員達に知られているのを、ご存じですか?」
「え・・・僕は違うよ!」
ちょっと驚いてしかもうろたえている。どうやら、本当に知らないらしい。
この方は本当に、こういう時に嘘はつけない。
「口止めするとかえって怪しまれるので、私は、前から道彦様を存じ上げていて、偶然、道すがらお会いして、喫茶店でお年始のご挨拶をしていたことにします」
「その説明は、いくらなんでも無理がないかな?」
「とても苦しいとは思いますが、他に思いつきません。それに・・・」
「『偶然』は、それさえ言い切ってしまえれば、後で説明に困りません」
「うーん、そうかー」
「よろしく、ご助力願います」
「もちろんわかっているよ」総務部長は快諾した。
*
1月10日1030
恭子は来訪、部長専決などの午前のスケジュールを順調に終わらせ、さらに総務部長が会議で執務室を離席にしたため、手の空いた恭子は、道彦に電話をかけることにした。
「道彦さんでしょうか?先日はお世話になりました。柊社の伊藤恭子です」
「ああ、道彦です。こちらこそお世話になりました」
「実は、上司から再度お話しをいただくよう、申しつけられました」
「うん。僕の方にも母からまた連絡があったよ。もう知っているのかな?」
電話からの声は気のせいかしら、なにか困っているように聞こえた。
「はい。承知しています」
「でも、やっぱり現場のことは電話では伝えにくいんだ。分かってくれる?」
「はい、なんとなく」
「で、いきなりな話で申し訳ないんだけど、旭川の『統合軍司令部』まで来てもらえないかな?」
!!!
これには、恭子は本当に驚き、つい声が大きくなった。
「なんでそうなるんですか!」
総務部ブースの何人かがこちらにふり向き、怪訝そうな表情をする。
「住所は、この前に渡した名刺のとおりだからさ」
「道彦さん、私の話を聞いてますか?」
恭子は意識的に声量レベルを下げて会話する。ほとんどウィスパーだ
「だって、僕はもう休暇とって東京なんてとても行けないし。そっちからの日程は2泊で十分だと思うから・・・」
「それはちょっと、・・・即答できません」
前回面談の教訓はどこへ行ったのだろうか。
ペースを握られないようにするつもりだったのに全く凝りてない私。いや、前回よりひどいと思う。
「そっちにも都合があるんだよね。なんとなくわかる」
「そうですね、上司に伺ってみないとなんとも申し上げられません」
まるで「あっぷあっぷ」だ、防戦一方である。
「実はね、母に軍の人間が常盤ラボに「希望」を漏らした例の件を吐かされてね。こちらの詳しい情報をよこせと、詰め寄られているんだ」
せっかく、恭子が伏せておいたのに、ある意味予想どおり、もうバレている。よほどお母さんに頭が上がらないらしい。やはり少し不憫に思ってしまう。
「わかりました!この件は前向きに検討いたしますので。ここは失礼いたします」
焦って、ちょっと強引に電話を切ってしまった。相手が電話を切る音はちゃんと聞いただろうか?
電話を切ってしばらくは、それを見つめてただ呆然としていた。
反省しているのだ。
そう、勝手に「前向きに検討」などと、口走ってしまったからだ。
冷静に考えて、会社人としては、特に秘書である立場としては迂闊な判断だと言えるだろう。
しかし実のところを言ってしまえば、恭子には、渡道(とどう)という個人的な理由というか憧れがやっぱりあって、その誘惑にぎりぎり負けてしまったのだ。
けれどもだ。もしかしたら久しぶりに旭川に行けるかもしれないって本当なの!?
少しどころか、けっこう期待している自分自身に、恭子は気がついて、ふとあきれてしまった。
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