土葬の村

高橋繁行『土葬の村』を読んだ。
タイトルは土葬だが、広く葬式について触れている。火葬はもちろん野焼きや風葬、遺棄葬これからの葬式について、これまでの葬い方を振り返ることで思うところが出てくる。

私の身近な土葬は、母の実家である。
半世紀前には母の曽祖父が土葬になったらしい。それより以前もずっと土葬を行っていた。
高速道路を通すために墓が移動になった際、掘り起こして骨かもしれないもの(かもしれない、なのでもちろん骨ではない石なども含まれる)は捨てずに移動された墓地の横に保管されている。

また、私の父の実家の墓の向かいには知らない人の墓があるのだが、その墓はよく見る墓石とは違う墓石である。この本を読んでそれが、土葬されたところとは別の、お参り用の墓であることがわかった。誰からも手入れされておらず、寺が誰もいないならと引き取ったのか、あるいはそもそもお参り用の寺だったのかは不明である。

民俗学の話を読むとき、面白がるのに加えて他者化を行ってしまう。なんとなく自分とは関係ない他所のルール!と捉えがちで、面白がる。
面白がる一歩先には、それを心から、生活への想いから行われているものがあるというのに。オリエンタリズム一歩手前である。

そういった点で、葬送、あるいは葬儀というものは他者化されていた民俗学が自分のもとに引き戻される。
葬式は自分が当事者になるであろう予想がつき、かつ切実な気持ちが自分のもとに立ち現れる。
大切な人が亡くなれば、とにかく執り行う。参加する。
そんな私たちの心に関する儀式として、今や最も身近である。

死は絶対的な他者であり、他人の死しか知ることができない(講義で聞いたが、誰の論か思い出せない。調べるにしても残念ながら通信速度制限)。贈与と交換の教育学で矢野智司は『死とは返すことができない贈与のリレー』であると述べている。

不思議な風習に巻き込まれる、またそれを存続させることは“当事者”がいる一方で私は“他者”である。
しかし死は体験できない。死を知るのは“他者”の死でしかない。“他者”であるが故に当事者意識が芽生える。葬式の“当事者”になるには、死の“他者”となる必要がある。
“他者”であるが故に“当事者”たる要素を満たす。うーん。そういうわけで私はいつまでも葬いを身近に感じ続けるのだろうと思う。

それとは別で切実な気持ちやそのための儀式は何だろうと考えたが、よくわからない。祖母が顔も見たことがない実の父親の墓を掃除して私たちを守ってくれるようお願いすることや、母が私の身を案じて(HPVワクチンを私にうたせなかったことへの心残りか)トイレに紫陽花を逆さに吊るしている。

私の感じる切実な感情だけのおまじないたちは、葬式を除けば今やその程度である。私の葬い方は、なんでもいい。好きにしてね。

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