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神さまたちだって役割変化〜今のメインは、いわばサブの方々?

大体、私たちが神さまたちの様子を知るのは、神話からになるよね。で、アマテラスの輝きとか、スサノオの荒さとか、メインどころの神さまの名前と大まかな性格を捉えていく。

そういう神さまたちは、大昔は割と「実りと罰を与えて、人間から畏怖と感謝のエネルギーを獲得し、それを元に実りと罰を現実に降ろして、また人間からの返りエネルギーを得ていく」立ち位置にいて、私たちより遥か上から、私たちの様子を見ながら繋がり保っていた、そんな状態だった。

エネルギー循環の形式としては、しっかりできあがっていたんだけどね。

時代がくだり、神罰だと思っていた天災が、単純に自然現象・科学現象としての災害に過ぎず、実りもまた、天候気候次第なのでは?という考え方が世間的に主流になるにつれ、一般社会の認識としては、神さまへの感謝も、畏怖も、薄れさせていくことになった。

神さまと私たちとの生活上の接点を、見出せなくなってきたから。

裏事情として、戦時中に誤った「神の立ち位置」の使い方をした流れで、あまり神仏神仏いうのはいかがなものかという風潮が残ったり。

神仏習合の解除や、人口爆発による宅地造成などの理由で「鎮守の森ってこんなに面積が必要?」的な現実問題との兼ね合いが勃発し、神社の土地削減の中で軽視の傾向が強まったり。

いろいろあるのだろうけど。

ただ、更に時代がくだると、改めてブームが起こる。御朱印集めで始まった流行は、神社仏閣に行く人の増える中で、単なるスタンプラリーから「パワースポットとして大切」「ご利益あるみたいだから大事」と、神社に対する人々の認識の中身を少しずつ変えて。

現状では、自分が願って利益を得るだけの脛かじり息子・娘状態から、積極的に神さまに「ありがとう」と「好きです」を渡すところから始める、神さまとの関係性を再度見直すムーブメントに、日本全体が移行してきていると思えていてね。


僭越ながら私のやっている「軸立て運び屋」を含め、神社や仏閣で日々おこなっていただいている数々の儀式、奏上、勤行、それぞれの仕組みの中で市井の方々によっておこなわれる大寒行などの季節勤行。

更に、一般にも浸透する施餓鬼会や、ごく当たり前に存在しているお祭り全体が、目に見えない力を動かしたり、動かされたりすることで、見えない世界を維持する、大切な作業と修行。

その動きは見える世界にも反映して、見える/見えない双方の循環が「国家鎮護」や「平穏安寧」みたいな、即座にピンとは来ないけど、多分すごく大事なはず、というものに繋がるのかも。だから、神社にお参りすることは大切なんだ。

そんな感じの、以前みたいな「怖いから崇める」でもなく「ご利益だけが目当て」でもない、大きな視点。

専門家の中では、それが主軸なのだけれど、市井にはなかなか広がりづらい認識が、一部で受け入れられ、芽を出して少しずつ広がっている感じを、感じている最中。

ここまでが、人間側の「神さまの受け止め方」。これに対して、神さま側の「人間との向き合い方」が、ずーっと存在してたってわけ。


人が畏怖と感謝を主軸に神さまに向き合い、エネルギー循環していた時期が終わる頃。神さまたちも困り始めるのね。

主に人間とのエネルギー循環で世界を動かす仕組みにしているのに、意識も向けてもらえないのでは、巡らなくなって世界が終わっちゃうから。

一応言っておくと、神さまたちは、忘れられたら自分たちが終わっちゃう!って困ってたわけじゃないからね。彼らは自分たちが世界の一部で役割を背負ってる、そう認識してる人が多いから、活動エネルギーがなければ循環できず=変化を起こさず、その見えない世界の動きは見える世界=現実に反映されて、結局は人間界が終わる。

そこで彼らが取り始めた方策が、キーワードを「畏怖」と「感謝」から「親しみ」と「感謝」に変えること。

高みにあって見下ろしているような、何かあればすぐ罰するのではと怖がられる父子・教師と学生のような存在ではなく、割と身近にいて助け合えるような母子・先輩後輩みたいな立ち位置へと、変化を心がけた。

時間をかけて、厳しくしようと努めてきた性格を緩めるため、数年前には「毘沙門天のおしゃべりナイトー!」というラジオ番組が流れるレベルまで砕ける努力をし続けていて。電車内で聴こえてきたので、すごい空耳だと思ったもののしばらく内容が続いていたので「こりゃ空耳ではないな」と。

そう、緩める努力は神さまだけじゃなく仏さまもしてるってことなんだけど、そんなこんなで、よく名前の知られている神仏は、ことごとく馴染みやすい存在になり、「悩みがあったら、いつでも神社仏閣に相談においで!」の感じに、なったのね。

ここまでが、大体一昨年くらいまでの話。それ以降も、極力チャラくなるように自己カスタマイズを済ませた神さまたちは、積極的に人間を、そしてこの世界を維持するために、私たちとの間でエネルギーが循環するように試みてきた。


そして気づくのだね。「いよいよ手が回りきらない」と。神さまって、全知全能でも、万能でもない。私たちより大幅に、知力と財力の高い祖先みたいなものだからさ。私たち同様「良くなるようにやってみてから考える」方式なのさ。

何せ、彼らは体がないし、時代の変遷だって渦中にいるわけじゃないから。渦中にいる私たちだって「試行錯誤あるのみ」のこの世界、神さまたちも大変なわけだよね。

そうそう、メインとサブってのは、あくまで立ち位置と役割の話だから、どちらが偉いとか重要とかは、ない。たまたま私たちの方が、知ってるか知らないかだけの違い。

なんだけどね。人間に馴染みのある神さまの方が、みんな親しんでくれる分、エネルギーは大きく巡る。しかーし、もうそんなこと言っていられない。神さまだって、いつもいつも人間対応ばかりはしていられない。

そもそも、彼らは日本という国を多方面から維持・安定させるため、大きな揺らぎを極力散らし、外敵の侵入を極力防いで、ってやることが、てんこ盛りなんだもの。

ましてや、多次元だなんだで対応先がバキバキに増えてるじゃない。試行錯誤して改善を導くにはどうしたって時間と手間が必要で。

ここでも人間と馴染みの深い神さまの方がエネルギーは回るんだから、変動激しくあちこちから付け込まれやすい時期は、私たちの良く知る神さまが、対外的な対応にも労力を割かずにはいられない。

そこでね。ずーっと黒子役で踏ん張ってきてた、名前はあるのに、あまり知られていない神さまたちが、立ち上がったというわけ。

「私たちが名前を知られ、人間との間でエネルギー循環量を増やすことが、結果的に国家鎮護に、平穏安寧に不可欠ではないですか」と。

例えば、アマテラスと孫のニニギに挟まれて影の薄かった、ニニギの父母神、アメノオシホミミとタクハタチヂヒメ。伊豆山神社の主祭神。彼らは地脈関係に強いから、ずっと防御の方で頑張ってくれてたけど、縁結びや恋愛成就を謳うことで知名度を上げ、エネルギー循環をはかってる。

日光東照宮、本宮神社のアジスキタカヒコネ。オオクニヌシ(オオナムチ)とタゴリヒメの息子と記載されていて(母神はタギリヒメと書かれるのが通例?)、話していてわかったのは「優しい調整役」ながらも、アメノワカヒコと組んで、なるべく名前を表に出そうとしていること。

アメノワカヒコは、エササニのパラレルパワーダウンロードの時に、「初めてなので適正量がわからない」と言うエササニとの間に入り、ダウンロード量の調整役を買って出てくれた神。

これもまた、人に提供するイベントに突然、名乗りを上げてきたけど、どうしたの?と思っていたら、知名度アップ=エネルギー循環量アップ=サブからメインへの移行、という流れだったのですよね。

著名人の方が、フォローも多ければ「いいね!」も多く、大きく広く波及できるじゃない?そういうこと。別に有名になったところで「俺の方が偉くなった」とか「私の言うことをききなさい」とか、ならない。それが大抵の神仏。


ここでね。この話、また私たちの方に戻ってくる。今までサブやってた人。メインのお時間ですよ?(笑)全ては試してからの柔軟さと、自信の有無に関わらず「好きだから、やり続ける」強さとを、今こそ育む時。「放っておいたら動かない」それは、そろそろ一旦卒業(笑)。

メインの人たちも、ずっと同じことは、きっとしていられない。別の役割が増えても、やることがシフトしても、これまでを応用し、展開するチャンスだと思って、完璧主義をまとうワーカホリック意識から解放されていきましょ?

神仏でさえ、あんなに努力しているのだもの。私たちが激サボりしてたら、循環執行妨害でタイーホされちゃうかも(笑)☆


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