「魂」とは「欲」そのものであるという今の時代的矛盾を統合しよう。

「魂って磨いてナンボ」だし、そのために向き合う対象として「自我」や「欲」なんかが、よく挙げられてる気がするわけです。

歪んだ自我や欲は、汚れを生み出して、魂にへばりついていくから、それを磨いて落とし、魂をピカピカにしてナンボ。磨くために何をしたらいいのか、それが人によって同じだったり違ったりするから面倒も起きるけど、紆余曲折の果に「経験値」というものが貯まると、使い勝手のいい万能ナイフみたいな効果で、魂の磨かれる速度が上がっていく。

一方で、それ以上に不要な汚れが生み出されないように「自我」や「欲」は抑えるのが最初で、そのうち抑えなくても暴走しなくなるまで、日々研鑽ですよ、いろいろ。みたいな。

そんな風に例えたくなる話。とても端的で極端ではあるけれど、一言でいうと上のまとめみたいになる、魂を磨く話についての流れは、今でも間違ってないと思う。

思うけど、気づいた。「欲」とは「谷が欠けている」状態。パツンパツンに膨れ上がって、日常生活でコイツが幅を効かせていると、凹むところがないから突っ張り探して、非常に厄介なわけだけど。

その「欲」は、谷が欠けているから、まんまるなわけで。まんまるとは、魂の最高の形なわけで。しかも、魂が体に入ってしまえば、まず「生きたい」という欲なしに自分を維持することなんて、できないから。私達は天然自然の状態で、純真無垢な「欲」の塊なのだと。いうことにもなるわけです。

うわ、また極端な。と思うかもしれないけど。こと、この次元においては、無欲とタメ張るくらいに強欲も必要なのだなと。全てが存在して当然、と考える陰陽のバランスにおいては、無欲は真ん中ではなく、一番端っこ。

となれば、正反対の位置には対になるモノがあって当然。強欲も含めて、この両者を認めて始めて中間地点の真ん中、バランスの良い点ってのが見えてくる。

魂が強欲だから、私たちは反対位置の「無欲」も学ばないといけない状態に、最初から置かれている。そして、もっと言えば無欲はゴールではなく、ただの対極を知る作業なので。

その後「自分のちょうどいい欲のバランスって、どこ?」がわかることで、魂はフレキシブルな「柔欲」(私の造語だけどね)状態になる。ここまで行かないと、とりあえずのゴールにすらたどり着いてないってこと。

柔欲な魂は、そもそも無欲であるのに加えて、強欲でもある。だから、何に対しても「そりゃそうだよね」って言える。「私も、結構強欲だよ」と笑って言う。でも、強欲というには、無欲。けれど、無欲というには、結構いろいろ、強欲。

あぁ、それが「中庸」、「陰平陽秘」への入り口になる。揺れ動きながら、中心に寄っていく。散逸しながら、まとまっていく。本当の「ど真ん中」を探しながら。なんて、禅問答なプロセス(笑)

ということでね。魂というのは、欲を体現するための、大事な根本であって、強欲が悪いとか、無欲がいいとか、そういう区別自体がない。両方を知って、極端に走らず「ま、こんなもんか」で幸せになるスキルを手に入れていく。それが、タイトルにもあるけど「矛盾の統合」ってヤツになるのだと、私は思う。

だから、これまでに失敗だの傲慢だの、散々かましてきた人の方が、実は「矛盾の統合」に近いのだと思う。でも、それもまた見方の一つ。何もなくても、唐突に無欲と強欲のど真ん中付近に連れていかれて「さぁ、このことをみんなに伝えて」と、どこかから何となく言われちゃう人だって、いるからね。

結果的に、そういう矛盾の統合を、いかなる面からもできるようになることが、実は「アセンション」の持つ意味の重要な一部分なんだと、思ってる。

そもそも、そういう話、あるんだよね。ドイツ観念論ってところに、「命題があって、その反対が出てきて、対立の果てには一段階高いレベルで結論が出る」っていうの。ヘーゲルって人が「止揚(アウフヘーベン」」って名付けてたけど。止めて揚げるって、いいよね。

正直、今の時代の課題そのままじゃん。って思えちゃう。つまり人間は、いつもいろんな面から「レベルアップする!」ための方法を、切望してきてて、やり方も少しはわかってて、なかなか届かない。

矛盾の統合って、右と左を知って真ん中を探すのではなくて、右と左の真ん中辺りにある点の「一段階上」を目指さないと、できない。平面ではなく、立体的に「高さ」まで入ってくるから、ちょいと難しく感じられるだけ。

元々3次元の私たちは「高さ」がわかる。だから、大丈夫。今は、それがやりやすい時代。冒険者の気分で、いろんな箱や扉を開けていけば、いいよね。


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