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フィルター越しの

 ” どうして人間は牛や豚と同じ動物なのに、服を着たり建物を建てたりして崇高な動物を気取っているんだろう。 わたしには人間が、牛や豚と同じ動物にしか見えない” と、ある女の子は言った。

 “ 誰に言われたわけでもないのにプラットホームの白線に綺麗に並ぶ人たちが、資本主義のシステムに操られて流れる「粒」に見える。“ とある人は言った。

そのふたりのはなしを聞いたとき、同じものを見ているはずなのに世界がそんなにも違って見えているのか…!と、とても新鮮だった。そして、それぞれの個人が違うフィルターとして生きている、と思った。世界で起こる出来事はひとつしかないけれど、それを通すフィルターは70億通りもあるんだな、と思ったし、逆に言えばフィルターは70億通りあるけれど、世界で起こる出来事はひとつしかないのか、とはっとした。みんながそれぞれのフィルターで、毎日同じものを少しずつ違うように見ている。そして、ひとりの人のフィルターも、多種多様なフィルターによって構成されている。男女を分けて見るフィルター、絵本屋さんが夢のような場所に見えるフィルター、街行く人の服装に目がいくフィルター…etc

 

 そんなフィルターのことを考えていたとき、家のテレビでついていた朝の情報番組が目に入って、気持ち悪くなった。なぜなら、ニュースは誰が切り取ったのか、どんなフィルターを通したのかわからないのに、なんのフィルターも通していないような顔をしているからだ。どんな角度からも見ることができるひとつの出来事が、誰かわからない人によって切り取られ、当たり障りのないタレントが当たり障りのないコメントでさらにフィルターをかける。もはや誰のものかわからなくなった情報を、わたしたちは毎日受け取っているのではないか。

いっそのこと、「経済的にはこんな暮らしをしていてこんな思想を持っている○○さんから見ると、この事件はこのように見えますよ」とか「△△の研究をしている大学生から見ると~」とか言ってもらった方が、ニュースを見るたびに「そういう見方もできるのかぁ」とよっぽど学びになる気がする。


 話は変わるけれど、ある日いつものように多摩モノレールに乗っていると、となりに3才くらいの男の子とお父さんが座って会話をしていた。

boy:この電車はまだ「働ける」の?
dad::みんながお家に帰れなくなっちゃうから、みんなを送り届けるまでがんばって働くよ
boy::(この電車は)なんでがんばってるの?
                      (親子の問答はつづく…)

 その男の子の使った「働く」という言葉から、「電車」と「人」との境目が彼の中ではないことが読み取れた。境目が「まだ」ない、と言おうとしたけど、境目をつくっているのはわたしだった。つまり、男の子は「電車=乗り物」「人=生き物」というフィルターを持っていなかったわけだ。大人になるということは、いろんなフィルターを装着していくことなんだな、と思った。「電車が働く」という表現を彼にはそのまま持っていてほしいと思った。フィルターを持ち合わせた大人に、「電車は働くとは言わないよ」と言われてほしくない、と思った。

子どもは大人より「劣っている」存在、なにかが「出来ない」存在として扱われるけれど、大人より持っているフィルターの数が少ないだけだ。むしろ、余計なフィルターを持っていないんだと思う。「知的障害者」という概念を知ったとたん、「知的障害者の○○さん」に見えてしまったり、年齢を知ったとたん「〇歳なのにこんなことも知らないのか」と思ってしまったり、知っているからこそ見えなくなるものは本当に多いなと思う。

大人になることは「大きくなること」だと、誰も疑わないけれど、本当は「小さくなっている」のではないか、と考えさせられた『ちいさなちいさな王様』という本を思い出す。(いま、大人が読むべき絵本として人気のドイツのベストセラー小説。)


 さいごに、

“「そいちゃん」っていうフィルターを通して見る世界に興味がある ”

と言ってくれた友達がいる。なんだかすごくうれしくて、なぜか泣きそうになった。わたしがそこにいて、見えているものの話をしているだけで認めてくれる人がいることがうれしかったのかもしれない。だけど、わたしも同じようにその友達が見ている世界のはなしを聞くのが本当に好きだ。好きな人というのは時に、その人というフィルターを通して見る世界が好きということなのかもしれないな、と思った。


 そんなわけで、わたしは「ないとうちひろ(そい)」というフィルター越しの世界のことを、言葉にしていこうと思います。


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