幸福を感じることを許すにも、ハードルがある。
「こんな楽して生きてて良いのか分からない」
先日お風呂に入っているとき、ふと思った。
最近調子を崩している人が多い印象がある。一方、私は精神科に通い始めてから、幸いにも最初の薬が合っていたようで生活がぐっと楽になった。
これまでのしんどさは何だったんだろう。
そして、こんな楽に生きてて良いんだろうか。
そういう思いが湧き上がってきた。
ただ冷静になって考えると、決して楽ではないはずだ。精神科に通わず生きられてる人が多数派で、薬がなくても仕事や学校へ行ける人もたくさんいて。
切らなくても、ODしなくても生活していられる人がいるらしくて。
私が思った、ここでの「楽(らく)」ってどういう意味なんだろうか。
ちょっと書き出してみた。
・夕方まで学校にいられる
(前は落ち着かなくて、早々に帰ってた)
・頑張りたいときに集中できる
(前は何にも集中できず、思考がまとまらず、考えようとしても涙がこぼれるばかりだった)
・家で安心していられる
(一人暮らしだから、誰にも気を遣わなくて良い)
・家事が下手でも適当でも良い
(ミスや不手際が多くて怒られることが多かった)
・機嫌を伺う必要がある相手がいない
(地雷いっぱいの人が近くにいたけど、いまはいつも一定の人が多くてありがたい)
この状態、とっても楽だ。ありがたい。
薬があっていたのも、周りの人の多くが穏やかなのも、住環境が整っているのも、恵まれている。
これが贅沢だという人もいれば、当たり前だったという人もいるかもしれない。
それでも、私にとってはこれが新しい環境や条件で、とても楽で、慣れていないからこそ逆に不安になる。
こんなに楽で良いんだろうか。
これに慣れてしまったら、また次苦しくなったときに耐えられなくなるかもしれないと不安になる。
鈴木裕介先生の著作だったと思うれけど、そこに「幸福耐性」という言葉があった。
身体の病気が治っていくときも怖さがあったけれど、心が回復していくのも怖くて、私には健康とか幸福な状態でいることを耐える力が弱いのだと思う。
でもこの力を育てることで、不運への耐性がこれまで以上に弱ってしまったらどうしようかと、やっぱりまだ不安なのだ。
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