ワトソン・ザ・リッパー 三章(4)
古来より――ありとあらゆる宗教で、ほぼ共通して存在する信仰がある。
必勝祈願でも、金運招来でも、怨敵退散でもない。
それは、安産である。
有史以前より、石器の頃から、人は安産を神に願った。
それくらい、生死に関わる大事であり、また人智の及ばぬ領域であったことがわかる。
「布を、清潔な布をありったけ持ってきて!」
「お湯を沸かして!」
「エタノール、エタノ―ルはどこ!!」
教会内は、すでに戦場の有様であった。
シスターたちは、ある者は炊事場では大量のお湯を沸かし、ある者はあちこちからありったけの布をかき集め、上を下への大騒ぎだった。
「あわわわわわわわ」
その混乱の熱気に押され、オーランドはうろたえる。
そこに――
「喝!!」
「わぁっ!?」
後ろから思いっきり一喝された。
「ま、マザー・マドリーン………?」
そこにいたのは、シスター長のマドリーンであった。
「あなたがうろたえても、なにも意味はありません! 却って妊婦が不安になります!」
「は、はい!」
多くのお産の介助を行ってきたマザー・マドリーン。
その風格は、歴戦の古参兵もかくやであった。
「とりあえず、手を、これで洗って下さい」
「これは……?」
「消毒液です、菌の感染を防ぐためです」
「菌、ですか……?」
出産とは、体内から赤ん坊を排出する行為である。
その際に、体内に雑菌が入ることで、妊婦の体が菌に感染し、病となり、死に至ることがある。
それを防ぐための一番の方法は、徹底した殺菌と除菌。
清潔な環境での出産、介助者の手の洗浄なのだ。
驚くことに、この時代「手術や出産を行う際、医師は手を洗う」という行為が、常識となってから、ほんの十年程度しか経っていない。
そもそもが、「菌」というものが、医学的に認められてから、まだ半世紀も経っていないのだ。
「それが終わったら、清潔な服を着替えて、マーガレットのところに行って下さい」
「行って……なにをすればいいんですか?」
「彼女の手を、握ってあげてください」
意外なことを言われ、オーランドは驚く。
「握る? 私がですか? しかし私は……」
妊婦の傍らにいて、励ます役割など、家族か、配偶者の行うことだ。
自分では分不相応、そう思った。
「他にあなたができることはございません」
「えええ~……」
完璧な、「無能判定」をくだされてしまった。
「それに……彼女にはいないでしょう、そういう人は」
「あ………」
マーガレットは、天涯孤独の身の上だ。
両親も兄弟もいない。
(せめて……アルバート君に、このことを伝えることができたなら……)
だが、伝達手段がない。
このロンドンのどこに住んでいるかわからない者に、この事実を伝える術はない。
「人間、生きるか死ぬかの大事の時には、心細くなるものです。たとえ他人でも、誰かがそばにいることで、力になります。それこそ、私達の仕事でしょう?」
孤独な人間に、「一人ではない」と伝える。
それは聖職者の、なすべき義務である。
「………」
そんな、聖職者の基本も失念仕掛けていた自分を、オーランドは恥じた。
「わかりました。行ってきます!」
言われたとおり、服を着替え、消毒を行い、分娩室のマーガレットの元に向かう。
「ううう……ああああっ!!」
マザー・アドリーンによれば、すでに彼女は破水しており、出産まであともう少しという段階であった。
「マーガレット!」
ベッドに横たわる彼女の傍らに跪き、その手を握る。
「うっ、うぐぐぐっ!!」
苦悶の表情を浮かべる彼女は、無我夢中で、オーランドの手を握り返す。
「がんばってください! 大丈夫、みんながいます!」
アドリーンやモモ、他のシスターたちも、みな走り回っている。
街の人達も、いつも施しのパン目当てでやってくるような連中も、きっとマーガレットの赤ん坊と聞けば、一緒に喜んでくれるだろう。
「私……私………」
苦しみながら、マーガレットがつぶやく。
涙を、流しながら。
「いいんでしょうか………」
「え………?」
その言葉の意味が、すぐにはわからなかった。
「私……母親になって良いのかな………?」
「……!」
マーガレットの涙は、産みの苦しみに耐えているだけではなかった。
身分の異なるアルバートを、家を捨てさせてまで結ばれようとしていること。
奇っ怪な怪人に、命を狙われていること。
それらが、出産直前の彼女の心を、大きく揺らがせた。
「産んで良いのかな……この子は、生まれるべきなのかな……」
生まれてきた子供に、さらに苦しみを味合わせるのではないか。
自分は、我が子を不幸にするために、命を宿したのではないか。
彼女は、その迷いの中にいた。
「なにを……なにを言うんです………!」
即座に、オーランドは答えることができなかった。
“悪魔の末裔”として生まれた自分。
母を死なせたと、父に捨てられたと思い生きてきた自分。
「生まれてきたことが間違いだったのではないか」――そう思わなかったことは、ない。
だけど………
「そんなこと、そんなこと言っちゃいけない……!」
だけど、それを認めたくなかった。
自分はそうかもしれないが、目の前の娘と、その中にいる子供が、自分と同じだと、思いたくなかった。
「ちくしょう……」
悔しさに、声を漏らす。
神の言葉も、人の言葉も、思い浮かばない。
苦しみ、迷う彼女を、救ってやれる言葉が出ない。
偽りでも、神父なのに。
神に仕える者なのに、なにも、浮かばない。
自分の不甲斐なさが、悔しかった。
「ありがとう……」
そんなオーランドに、マーガレットは、精一杯の笑顔を向ける。
自分のために、悩み、苦しんでくれる隣人に、感謝の声をかける。
「お願いが……あるんですけど……いいですか?」
「なんだい? 水でも飲みたいのか? すぐに持って――」
「違います……」
脂汗を垂らしながら、マーガレットは言う。
「もし……私に……なにかあったとき……この子を……お願い……します……」
「なにを縁起でもない!」
「お願い……」
ギュッと、マーガレットが、手を強く握った。
ただただ、願う意志を込めて。
自分の命よりも大切なものを思う者の力が、こもっていた。
「はい……わかりました……絶対に……絶対に……!」
その手を、オーランドは握りしめた。
「ありが……うっうううっ………ああああっ!!!」
再び、強い陣痛に襲われたのか、マーガレットは絶叫する。
「オーランド神父、離れて」
マザー・アドリーンが、彼女の側に近づく。
「まずいわね……もう少しよ、意識をしっかり。息を大きく吸って、吐いて……!」
すでに、出産は最終局面に達していた。
「もう頭が出かけています!」
「ゆっくり、少しずつ回転させて引き出しなさい! へその緒で首をしめないように、気をつけて!!」
戦場のような怒号が響く。
「…………!」
ただその場に立ち尽くすしかないオーランドは、せめて邪魔にならぬよう、壁際に移動しようとした、その時であった。
「!?」
「誰よ、こんな時に!」
教会の扉が、激しく叩かれる。
それは、ノックなどという生易しいものではなかった。
まるで、ハンマーで叩きつけ、扉をぶち破ろうとしているかのようであった。
「なんだ……!」
嫌な予感が、オーランドの脳裏をかすめる。
「オーランド神父………」
モモが、不安げに窓を指差す。
「これは!?」
窓の外に、いつの間にか、霧が漂っていた。
尋常な厚さではない。
それこそ、「伸ばした手の指先が見えぬほど」である。
それは、あの夜と同じ現象であった。
「このタイミングで……来るだと………!?」
間違いなく、扉の向こうにいるのは、“切り裂きジャック”だった。
マーガレットを連れて逃げることはできない。
今この状況で、彼女を動かせば、母子ともに命を落としかねない。
「下衆が……!」
心の底から、オーランドは、扉の向こうの相手を呪った。
「私が行きます……皆さんは、ここで、マーガレットを頼みます」
ゆらりと、立ち上がると、部屋を出て、礼拝堂に向かい、その先にある扉へと向かう。
頭を覆っていた布を剥ぎ取り、放り投げる。
その間も、ドンドンと扉を叩く音は、ズシンズシンと、強さを増していく。
蝶番がきしみ、閂が折れかねないほどの轟音。
最後の願いを込めて、扉越しに、オーランドはその先にいる者に言葉を投げた。
「どなたでしょう?」
音が、止む。
一瞬、期待する。
ただの、騒がしいだけの来訪者で、なんらかの急ぎの事情があったので、乱暴に扉を叩いただけだと。
返答を、期待した。
「こちらの教会の方に、急ぎのお手紙です」程度の返事を。
だが、そんなわけはなかった。
轟音を上げて、扉が破られる。
現れたのは、やはりあの時の、両肩が巨大に盛り上がった大男であった。
オーランドの姿を見つけるや、問答無用で襲いかかる。
「なんだと!?」
男の――“切り裂きジャック”の持っていた武器を見て、オーランドは驚く。
剣であった。
しかも、古の中世騎士物語に出てきそうな大仰な大剣。
ただ、デカい。デカすぎる。
刃渡りは人の身の丈ほど、その幅は、もはや剣というより鉄板だ。
「なにが切り裂き、だ! 潰し殺すの間違いじゃないのか!」
怒鳴るオーランドの声を無視して、“切り裂きジャック”はさらに大刀を振り回す。
礼拝堂のボロい机も、椅子も床さえも、微塵に変えられ宙を舞う。
「ここは神の家だぞ……調子に乗るな!!」
裂帛の気合を込め、“斬”の力を放つ。
空間を伝道し、鉄すら斬り裂く一撃が襲う。
激しい、衝突音が響き渡る。
鉄の塊同士を、力任せにぶつけたような激音であった。
「なんだと……!」
たとえそれがなんであったとしても、それこそフェイのような悪魔でもないかぎり、容易に斬るはずの己の一撃が、通じなかった。
大男のかぶっていた布が剥がれ、その下が顕になる。
「なんだよ……そりゃあ……」
その巨体の理由がようやくわかった。
その姿は、甲冑であった。
全身くまなく覆った全身鎧。
両肩部分に小さな煙突のようなものが伸び、そこから、一定のリズムを刻み、煙が溢れ出ている。
「なんなんだ……お前はなんなんだ……?」
それはまるで、鋼鉄の人形。
否、後世の者が見たならば、こう思っただろう。
ロボット、と。
「――――!!!」
“切り裂きジャック”が襲いかかる、巨体からはありえぬ速さで、大剣を振りかぶり、振り下ろし、力づくで、一切合切すりつぶすように。
(これは……一体……!?)
今まで、様々な戦いをくぐり抜けてきたが、こんな相手との戦闘は初めてだった。
人間なのか、人間以外のなにかなのかもわからない。
ただ確かなのは――
「ちっ!!」
再び、力を発動させ、“斬”の力を叩き込んだ。
(効かない……!)
通用しないのだ。
自分の力が、まるで直前にかき消されたように、通用しない。
「まさか……もしかして……お前は……!」
考えたくない事実が、目の前にあった。
オーランドの力の根源は、長き時のいずれかで、自身の中に混ざった“悪魔”の血を根源としている。
それが通じないということは、理由は一つしかない。
「神聖存在だといでも言うつもりか!!」
フェイが、「神の呪い」と呼び、“楽”以外のなにも糧とできなくなったように。
神の力の前には、悪魔はその全ての力を封じられ、無効化される。
悪夢のような話であった。
殺人鬼が、神の祝福を得ている。
今この瞬間も、苦しみ、もがき、我が子をこの世に生み出そうとしている娘を殺そうとしているものが、神の寵愛を受けている。
「ふざけるな!!」
怒りのあまり、怒鳴りつける。
それではまるで、マーガレットと、彼女の子供が、「死ぬべき人間」と、神が認めたようなものではないか。
「そんなこと……認められるかぁ!!」
怒りのあまり、いつも以上に、本来なら抑制している領域にまで、力を巡らせる。
意識が遠のく。
同時に、意識が過剰なまでに鋭敏になる。
右腕がビキビキと、骨を砕き、肉を散らすような音に塗れる。
それは、さながら、世界の有り様を否定するかのような音であった。
「巫山戯るな!!」
オーランドの右腕が、“切り裂きジャック”の大剣に匹敵する、巨大な刃に変わる。
己の肉と血と骨を捧げて精錬した、魔性の刃であった。
「耐えてみろジャック・ザ・リッパー!!」
理性が効く限界まで振り絞って放った、“斬”の一撃を、撃ち放つ。
教会の壁や床まで巻き込んだ、斬撃の疾風は、”切り裂きジャック“の胴体に直撃する。
一瞬、またしても、あの激しい金属音のような音が響き渡る。
(なんだ……まるで………)
激怒しつつも、同時にどこか冷静な自分が、その音がまるで、女の悲鳴のようだと気づく。
しかし、その男消える。
マグネシウムを燃焼させたような光が起こり、“切り裂きジャック”の胴体を横二つに斬り裂いた。
「やった……か………!」
二つに別れた男の胴体は、上半身は床を転がり、下半身はそのまま、立ったまま、血飛沫を――否、噴水のように血を吹き上げる。
どんな人間でも、絶対に死んでいなければならない殺し方で、殺した。
「これで………」
急激に、意識が黒に染まる。
及んではならない一歩手前まで、自分の力を使ってしまった。
死体を片付けなければならない。
壊れた礼拝堂のことはなんと説明しよう。
腕は、自分の腕を元に戻さなければ。
そもそも、戻るのだろうか。
以前、ここまでやった時には、なんとか戻すことができたが……
(ああ……ダメだ……意識が………)
遠くで、なにかが聞こえた。
赤ん坊の、泣き声が聞こえた。
(ああ、マーガレット……君と、君の子供に……どうか……神の……しゅくふく……)
そこで、オーランドの意識は途絶えた。
つづく
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