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ワトソン・ザ・リッパー 終章

頭が、痛い。
 ガンガンと、誰かが鐘を鳴らしているような鈍い痛みが頭を支配している。
「ううう……」
 呻くように身を起こし、目を開ける。
 朝日が、上っていた。
「きれいだ……」
 こんなにも、朝日が美しいと思ったことはなかった。
 あまりにも美しく、涙がこぼれだす。
 世界はこんなにも美しいのだと、世界はこんなにも光にあふれていたのだと、その事実に気づき、たまらない気持ちで、いっぱいになった。
「私は何度、オマエの目覚めを見るのだろうなぁ」
 そんな彼の背中に、声をかける者がいた。
「え……?」
 振り向くと、そこにいたのは、妖艶なる悪魔、フェイ・ダーレンであった。
「どんな気持ちだ、ジェイムス・H・オーランド……ああ、いや、その名はくれてやったのだな、今は“名無しの悪魔”か。いっそ、”ジャック・ザ・リッパー“とでも名乗るか?」
 今さら、自分が置かれている場所に気づく。
 川辺の土手、わずかに潮味を感じる、海に近い。
「ここは……どこだ……?」
「テムズ川だよ、そこの河川敷だ」
 それを聞いて、彼は驚いた。
 かつて、オーランドであった名無しの男は、驚いた。
「なぜ俺は生きている!?」
 死んだはずである。
 キリスト教徒の大罪、「自死」を行い、悪魔としてテムズ川に沈んだはずである。
 その自分が、いつのまにか人の姿に戻り、当たり前のように呼吸をしているのだ。
 ありえない。なんで、どうして!?
「いつまでそんな格好でいるつもりだ。襲うぞ?」
 彼は全裸であった。肌着一つ身につけていなかった。
 クククと、いたずらっぽく、フェイは笑い、服を投げよこす。
 いつの間に用意したのか、彼の体型にちょうどいいサイズの、服が一揃いあった。
「これは………」
 渡された服をまといながら、自分で刺し貫いたはずの、左胸を見る。
 残っていた傷痕が、確かにあった事実を証していた。
 だがその傷痕が、おかしかった。
「なんだ……これは……?」 
 まるで、星のような、十字のような傷痕であった。
「よかったな神父、これで一生、十字架を買わんで済むぞ」
 くだらなそうな顔で、フェイが笑う。
「それはな、“聖痕”だよ。あいつが、自分のお気に入りにくれてやるものさ」
「あいつ……? あいつとは……まさか……」
 聖痕を与えることができるものなど、ただ一つしかいない。
「あいつだよ」
 彼の疑念を払うように、フェイは天を指差す。
「奇跡を起こしたのさ、神がな」
「――――!?」
 一度死んだものは、蘇ることはない。
 それは絶対の法則である。
 だがもしそれが覆るのだとしたら……それは、“絶対”者が関与した時のみであろう。
「神が……俺を………」
“悪魔の末裔”と呼ばれた自分を、「生きていることが神への冒涜」とされた自分を、神が救ったというのか。
 信じられぬ話に、名無しの男は、ただただうろたえていた。
「生きろ」――
 誰かの声が聞こえた。
 朝日の光が、そのまま声となって、彼の魂に響いた。
「生きていいんだろう? オマエは……生まれたことが間違いだった命などないと、そう叫んだのだろう」
 震える彼に、フェイは言う。
「オマエたち人間は本当に面倒くさいな。あのニヤけづらが、間違ったものを生み出すわけがないだろう。この世の命は皆、生きるためにある」
「フェイ……お前は……神に、会ったことがあるのか?」
「おいおい、私は悪魔だぞ? 元敵対者だ。そりゃあ顔くらい見るさ」
 肩をすくませるフェイを前に、名無しの男は、なんとも言えぬ気持ちになった。
 神の敵対者が、神を理解しているという、矛盾だが、真理でもあった。
「あの子は……マーガレットの子供は、どうなった?」
「ん、ああ……オーランドくんか」
 赤子は、名無しの男がかつて持っていた名を与えられた。
「今頃海の上だよ、そっちに託しておいた」
 フェイが託したのは、遥か東の果てにある島国の住人であった。
 長らく国交を制限していたのだが、四半世紀ほど前に国家体制が変わり、解放され、英国とも国交を樹立している。
「皇帝の一族と付き合いの深い外交官がいてな。まぁ、何度かやりとりもしたことがある。如才ないヤツだから信用できるだろう」
 彼の国は、皇帝を神の子としてたたえている。
 プロテスタントでもカトリックでもない、何の因縁の、その国にはない。
「――で、オマエはどうする?」
「ん……そうだな……」
 今さら、ヴァチカンには戻れない。
 任務を放棄し、独断行動に出ただけではない。
 忘れかけていたが、“オーランド”としては、切り裂きジャック事件の容疑者の一人として、指名手配されているのだ。
「行くところがないのなら、このまま英国にいればいい。乗りかかった船だ、国籍くらいは用意してやるさ」
 英国は、あちらこちらと戦争をしている。
 それでなくとも、ロンドンは世界有数の大都市だ。
 行方不明者など、いくらでもいる。
 そのため、その際の混乱に乗じて、死者の籍を買い取ることは、裏街道の人間にはそう難しくない。
「なんなら、家と職も斡旋してやろう」
「なぜそこまでしてくれるんだ?」
 この悪魔が、単純な好意だけでやってくれているとは、男には信じがたかった。
「なぁに、簡単な話だよ。私は“楽”を求め続けねばならない。私にとって飽きることなき娯楽は、人間の営みだ。オマエはそれを私に供給してくれればいい」
「俺は道化か」
 さすがに、不愉快さを禁じ得ないが、かの悪魔は気にせず続ける。
「特に、人の世の闇は私にとってごちそうなのだ。陰謀や策謀、そういったものが解き明かされる瞬間などたまらない。絶頂を覚えるほどだ」
「悪趣味だな」
「そして、それを安定して供給できるシステムを作ったのだがな。いかんせん、最近そっちの担当者に空きが出た。オマエがその穴を埋めてくれるというのなら、これほど都合のいいものはない」
 皮肉すら通じず、傲慢に、傲岸に、いけしゃあしゃあと、フェイは言う。
 しかし、ありがたい点もあった。
 そういう事情によるものならば、少なくとも、このふてぶてしい悪魔に、感謝をする必要はないということだ。
「そうするか……したいことは、これからゆっくり探すとするか」
「決まりだな。ならとりあえず、私の家に来い。ちょうど一人分部屋が空いているからな」
 契約成立とばかりに、フェイは手をのばす。
「その前に……このままだとオマエは名無しだからな、なにか呼び名がなくば困るな……ああ、そうだ。ちょうどいい、あの名前を名乗るといい」
 そして、名を失った男に、悪魔は新たな名を贈る。
「ジョン・H・ワトソンというのはどうだ? いかにも平凡だが、温厚で誠実そうな、どこにでもいそうな名前だろ」

つづく


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