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ワトソン・ザ・リッパー 四章(5)

「アルバート…ヴィクター……誰だ、それは……?」
「知らんか? まぁ、異国人ならしかたないな。うん、王族だよ。今の女王の孫だ」
「なんだと……彼が……!?」
 英国女王ヴィクトリア――大英帝国を象徴する女王であり、彼女の治世において、英国は全盛期を迎えたことから、後世では「ヴィクトリア朝」とさえ讃えられた。
 その息子は、後にイギリス王となるエドワード七世こと、アルバート・エドワード。
 アルバート・ヴィクターとは、その息子である。
「まさか……本当に……王族……?」
 モモとの会話を思い出す。
 アルバートなどありふれた名前だ。
 前の王様も、今の王子様も、その息子も、皆アルバートだ――
「その通りだったのか……」
 少しずつ、オーランドにも、真実が見えてきた。
 英国王室の直系、次代の皇太子、いずれは大英帝国の王にもならんとする者が、スラムの小娘と、みちならぬ恋に落ち、子供までなした。
 それは、王室にとって、国家にとって、一大スキャンダルだ。
「ウィリアム・ガル……答えたくなければ黙っていてもかまわん。勝手に話させてもらう」
 フェイは、己の推理を披露し始めた。
「“切り裂きジャック”計画の真相とは、こうだ。英国にまつわる、様々な醜聞、スキャンダルの類。表に出れば、大事になる。王室や国家の権威を失墜させかねない事態を、もみ消し、なかったことにするための……そういうことを専門に行う部署の者たちが作り上げた、虚像の存在だ」
 それがなんという名前で呼ばれているのかはわからない。
 いつから存在したのかもわからない。
「そして、時に、金や暴力だけでは消しきれない問題が発生したとき、その関係者全てを闇に葬る事で、事態を収拾してきたのだろう」
 だが、歴史上において、名のある者が、ある日突然、あまりにも急に、そしてあまりにも、特定の勢力にとって都合よくこの世から消え去る事態は、数多くあった。
 彼らが、それらの事象に関わっていたいう可能性は、ゼロではない。
「ウィリアム・ガル、貴様は、そういった組織の元締めだったのだろう? なるほど……国家にとっての病巣を切除する……なんとも、名医サマだな」
「………………」
 ガルは答えない。
 なにも言わない。
 肯定もしなければ、否定もしなかった。
 ただ、あきらめたような目をしていた。
「だからって……殺すことまではなかっただろう! もっと、他の手だってあったはずだ!!」
 アルバートは、家を捨てようとしていた。
 それがその通りに進んでいたならば、たしかに大問題であろう。
 だがもっと、穏便に済ませる手段はいくらでもあった。
「そうなんだよ、ジェイムスくん。穏便に済ませる方法はいくらでもある。歴代の王族や貴族が、隠し子をはらませたなんて、いくらでもあった話さ」
 個人ならば大金だが、国家としてははした金な、一生遊んで暮らせる程度の金を握らせ、大英帝国に属する、どこぞの――それこそ。カナダか、オーストラリアか、後に南アフリカ共和国と呼ばれるケープ植民地辺りに飛ばし、そこで監視は就くが、緩やかな、食うに困らぬ生活を送れせればいい。
「――だがそれはできなかった。できない理由があった。最初から、“最後の手段”を取らざるを得なかった」
 そこで、フェイが笑い出す。
 彼女にとってのごちそうが、“楽”が、「人間という種のこっけいなまでのエゴ」に、笑いを禁じずにいられなかったのだ。
「アルバートは英国王室、当然プロテスタントだ。そしてマーガレットは、セント・メアリー・マットフェロン教会で下働きをしていることからわかるように、カトリックだ」
「それは……俺も気づいた、宗派の違いは、避けられぬものだ。だが、それだけでここまでになるのか!?」
 いかな異端者とはいえ、問答無用で命を奪うとは、常軌を逸している。
「ジェイムスくん、こういうときは前提条件を疑え。基礎だぞ、基礎」
 ニヤニヤと、フェイは笑う。
 幾重ものベールに包まれ、逃げ隠れしていた真相が、いよいと彼女のフォークに捉えられたのだ。
「問題はアルバートじゃない。マーガレットだ。彼女の出自が問題だったのさ。そうだろう、ウィリアム・ガル?」
「!」
 ガルの目が、狼狽に揺れる。
「マーガレットは、フランス系の移民だったそうだな。両親も祖父母も他界し、家族はいない天涯孤独だったそうだが……さては彼女、フランスの王家の流れでも汲んでいたか?」
「君は………何者かね……?」
 ガルがようやく、口を開く。
 訝しみ、そして、怯えた眼差しで、問いかける。
「フェイ・ダーレン……まぁ、暇人だ」
「その名……聞いたことがあるぞ……ロンドンの裏社会に暗躍する怪人がいると……女だったのか!?」
 悪魔であり、人智の及ばぬ年月を人間社会にまぎれて暮らしてきたフェイ。
 今しがた使ったライフルといい、この邸宅といい、どこから金とコネを得ているのか不明ではあるが、まっとうな手段ではないだろう。
「私を知っているか、さすがだな」
 それでも、その存在は謎に包まれており。
 ガルのような、国家の闇を担う者が、ようやく名前を知っているが、性別は知らなかったというレベルなのだ。
「フェイ……フランス王家とはどういうことだ? マーガレットが、そんな貴人の家の生まれだなんて、聞いたことがないぞ?」
 本人からもおろか、ヴァチカンからの指令書にも、そんなことは書いていなかった。
「そりゃそうだろう」
 オーランドの問いかけに、フェイはさもありなんとい返した。
「おそらくは……百年ほど前だな。あっとろう、なんか騒ぎが」
 百年前の騒ぎ――1789年に起こった、フランス革命である。
「あの頃に、ギロチンから逃れようと、貴族が周辺諸国に高飛びしたからな。イギリスに来ているやつも、そら相応にいただろうよ」
「そのとおりだ……」
 ガルが、事実を認め、語り始める。
「彼女の曽祖父は、ルイ十五世の縁戚だ。遠縁で、末席ではあるが王位継承権も有していた」
 その事実を、マーガレットは知らなかった。
 両親が話さなかったのか、それとも、話す前に死んだのか、ともあれ、没落の貴族であったのだ。
「百年前にイギリスに渡り、庇護を求めた」 
 欧州の王侯貴族は、何かしら遡れば、どこかしらの国の王侯貴族と縁戚である。
 わずかなつながりを頼りに、助けを求めたのだろう。
「それが一体………何だって言うんだ……?」
「わからんか……まぁ、仕方があるまいな」
 まるで、文法も文字も、全てが異なる世界の言語を聞いているような気持ちになっているオーランドを、ガルは、上から下まで、値踏みをするように視線を巡らせて、言った。
「ただのカトリックの娘ならばここまでせんでも良かった。しかし、外国の王族の血を引くものとなれば、話は変わる」
「なにが、どう変わると言うんだ!」
 声を荒らげるオーランドに代わって、フェイが問いかける。
「ブラッディ・メアリー、か?」
「そうだ」
 ブラッディ・メアリー――この頃より三百年以上前に存在した、イングランドの女王、メアリー一世のことである。
 彼女は、敬虔なクリスチャンであり、プロテスタントであったイングランドの、カトリック化を推し進めようとした。
「だが、当然それは反感を買った。それに対し、メアリーは強硬手段に出る」
「それは……?」
 尋ねるオーランドに、フェイは皮肉げな笑みを浮かべ答えた。
「まぁ、お決まりだよ。虐殺だ。元々、既存の宗教勢力に敵対視されたということもあるがな。数百人を殺め、中にはカンタベリーの大司教までいた」
 メアリー1世に関しては、後世の歴史家たちも、その評価が分かれる。
 愛人を正妻にするため、離婚が禁じられていたカトリックからプロテスタントに国教を変えた父親ヘンリー八世。
 そのせいで、母とともに、王族の身分を奪われた経歴。
 そして、腹違いの妹である、プロテスタントであったのちのエリザベス女王との確執など、様々な理由が挙げられる。
 それでも、その後英語圏において「血」の隠喩として「メアリー」という名が使われるようになったほど、彼女の存在は、のちの英国に大きな影響を残した。
「くだらない! そんな……そんな何百年も前の女王と、同じことに、マーガレットの子供がなると思ったのか!」
 王位継承権を持つ王太子エドワードの子、アルバート。
 その子供が王位につき、国教を変えようと企み、社会を混乱に陥れるかもしれない。
 それゆえに、殺そうと企んだというのか。
 あまりの愚かしい理由に、オーランドは怒りで頭がおかしくなりそうだった。
「わかっていないな……ありえない話ではないのだ。しかも、フランス王家の血を引く……これがどういうことかわかるか?」
 その様を見て、ガルはさらに続ける。
 フランス革命で滅びたはずのブルボン朝は、四半世紀の後、ルイ18世を称するものが、王政復古を目論んだ。
 それが滅びた後に、今度はナポレオンの甥が、三世を名乗り、皇帝となろうとした。
 それらの騒乱は、ほんの三十年前である。
「英国とフランスの王家の血を継ぐ、カトリックの子供……これが英国だけではない、フランス、いや、世界を巻き込んでの、禍根の種になる」
「ふざけるな!」
 天上人を気取る王族貴族の世界の常識では、そうなのだろう。
 だが、そんな理屈で、マーガレットと、その子供が死なねばならぬ理屈は、受け入れがたかった。
怒りのあまり、拳を握りしめ、ガルの顔面に叩き込もうとした。
「やめろ」
 だが、それフェイが制した。
 そして、とても、つまらなそうな顔で言った。
「おそらくヴァチカンも気づいていたのだろうよ」
「!」
 その一言で、急激に、オーランドの頭は冷えた。
 そうだ。
 自分の任務は、「マーガレットを守る」であった。
 なぜ、市井の一介の小娘を、ヴァチカンはわざわざ自分を派遣してまで警護させたのか。
 簡単な話だ。
 同じことを、ヴァチカンはつかんでいたのだ。
 マーガレットとアルバートの子供が、英国王位につけば、イギリスをカトリック教圏に戻すことができる。
 そのために、自分に守らせようとしたのだ。
「俺も……同類だったわけか……」
 方向性は逆かもしれないが、なにも知らぬ者たちを、自分たちの利益のために、その生殺与奪を握ろうとしたという点では、変わらない。
 変わらないのだ。
「くそっ!!」
 振り上げた拳を、やるせないまま、地面に叩きつける。
 なんの意味もない行為であった。
「神父……君は………ああ、そうか、ヴァチカンの特務か……」
 裏仕事に関わるものだけあって、そのわずかなやりとりだけで、ガルはオーランドが何者なのか、概ね理解をしたようであった。
「神父よ、私は今年で七十二歳だ。十分すぎるほどの高齢、爺だよ」
 どこか、ガルの声は、オーランドを教え、たしなめる教師のようだった。
「だが見給え、この鎧を、蒸気甲冑という……従来の人間では指先一つ動かせぬ重さの鎧も、内燃機関を増設することで、私のような爺さえ、魔人のごとき力を与えた」
 両肩の突起は、濃縮石炭によって熱せられた水蒸気。
 それが、さながら霧のように、周辺を覆った。
 その爆発力により力がどれほどのものか、人外の存在であるオーランドに、ただの一般人が、互角以上に渡りあえてしまったほどだ。
「この鎧はね、少し前までは、ただの飾りだったのだ。人間が使うために作られたものではなかったのだ。それが、ほんの半世紀もたたず、兵器として運用できるようになった」
 蒸気機関、電気技術、電信技術、医療、化学……様々な分野で、日進月歩で世界の進化が加速していた。
 昨日までの権威は、今日にはガラクタになり、明日にはゴミ箱に捨てられる。
 かつては繁栄の極みにあった大帝国が、今では蛮族と蔑んでいた者たちに支配される時代だ。
「今でさえそうなのだ。数十年後……あの赤子が大きくなったとき、世界はどのような有様になるか、誰も想像もできぬ」
 ガルの言葉は、決して大げさではなかった。
 この時代より三十年後――世界は、たった一人の青年が、王族を暗殺したことがきっかけで、未曾有の大戦争を起こす。
 第一次世界大戦である。
「…………それでも」
 膝を突き、悔しげに、オーランドは呻く。
「それでも………あっていいわけがない。生まれてくることが間違いだったなんて、そんな道理があっていいわけがない……!」
 あの夢の中、血反吐の沼の夢で、オーランドは声を聞いた。
 それは光の波動のような声。
 耳ではなく、聴覚神経ではなく、脳ですらなく、直接、自分の魂に語りかけてきた。
 今なら思い出せる。
「そんなことはない!」――
 生まれてきてはならない命があると、認めそうになった自分に、その声は必死で訴えていた。
 誰の声かわからない。
 そもそもが夢の話で、条理や理由を求める自体、無意味なのかもしれない。
 でも、信じたいと、思わせる声だった。
「頼む……いや……お願いだ……お願いします………」
 オーランドは、地面に手を当て、頭を下げる。
 自分を殺そうとした者に、自分の守ろうとした者を殺そうとした、ウィリアム・ガルに、乞い願った。
「あの子を……あの赤ん坊を、殺さないでくれ……生かさせてやってくれ! あの子は、まだ、まだ名前すらないんだ!!」
 プロテスタントもカトリックも、イギリスもフランスも、あの赤子は、何一つ選んでいない。
 周りが勝手に決めつけて、弄んでいるのだ。
「…………………」
 答えることができないガル。
 そんな彼を見て、フェイが口を開いた。
「サー・ウィリアム・ガル」
 あえて、サーを付けて、フルネームで呼ぶ。
「貴様をとっ捕まえてから、そこそこ時間が経った。なぜに、誰も助けに来ない?」
 英国の裏仕事の元締めが、そもそも自ら動くこと自体、異常である。
 そして、その元締が敵に返り討ちにあったのに、部下が現れないことも、これまた異常であった。
「誰も、来るわけがない……ここには、私だけで来た」
「なるほどなぁ……そうか、貴様……死ぬ気だったな?」
「!?」
 フェイの言葉を聞き、オーランドは驚く。
「たとえ、いかなる事情があったとしても……アルバート王子の御子を殺めるのだ。その罪は、償わねばならん」
 彼が一人できたのは、赤子と、その関係者――すなわりオーランドを始末した後、最後に全てを知る自分が死ぬことで、秘密を完全に封じるためでもあったのだ。
「王子がまだ母君の腹中に在られる時から、見守ってきたのは私だ。それくらいせねばならぬだろう」 
 だがそれ以上に、一人の人間としての、良識と常識と、情愛の上での、決断であった。
「バカな……これじゃ……誰も救われない……!」
 マーガレットが死に、シスターたちが死ぬ、レストレードが死に、赤ん坊も死んで、そしてガルも死ぬ。
 みんな死んで、なにも残らない。
「こんなの……こんなこと………!!」
 やり場のない憤りが、オーランドはただただ、悔しかった。
「あの~……」
 そこに、新たな登場人物が現れる。
 赤子を抱いた、モモであった。
「モモさん! 出てきてはいけないと言ったでしょう!」
「すいません、でも、でも……!」
 慌てて声を上げるオーランドに、平謝るモモ。
「でも、心配だったんですぅ……また、その……」
 表向きは、平静を保っているが、自分以外の人間が皆殺しにあうという、経験をしたばかりである。
 一人残って不安と戦うのも、限界があったのだろう。
「あぶぅ……ぶええええ!」
「ああん、ごめんなさい! ないちゃダメですよ~、ごめんなさいねぇ~」
 オーランドの声にびっくりしたのか、モモの不安を察したのか、赤子が泣き出す。
「………その子が、アルバート王子の御子か……?」
「ああ」
 それを見て、目を細めるウィリアム・ガル。
「よく似ている……王子に……」
 王室三代に渡って仕えてきた御典医である。
 彼からすれば、アルバートは、我が子に等しく、その子供は、孫に等しい思い入れがあったのだろう。
 どれだけ理屈でごまかしても、欺ききれぬ心が、彼の中にあった。
「フェイ……なにか、手はないのか? お前なら、なにか手があるんじゃないのか?」
 すがるような思いで、オーランドはフェイに問う。
「悪魔に頼るか?」
「そんなこと言っている場合じゃない」
 もはや、手段は選んでいられない。
 元々が、“贖罪者”である。
 生きていることが神への冒涜と言われた人生である。
「いまさら罪の一つや二つ、増えても構わない」
 きっと神は許さない。
 地獄に落とされるのだろう。
 それでも、同じ落ちるなら、笑って落ちたい。
「ふふふ………くくくくくっ………あははははははっ!!!」
 その答えを聞いて、フェイは笑う。
 これでもかと言うほど、出会って数日だが、様々な笑みを見せてきた彼女が、一番楽しげに笑った。
「やはりオマエはおもしろい。いいだろう、いい手がある。たーだーし……」
 ちらりと、フェイはガルの方を見た。
「ちょっとばかし、貴様にも協力してもらう」

五章につづく


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