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ワトソン・ザ・リッパー 四章(2)

暗い。
 暗い闇の中に、オーランドはいた。
 わかる。ここは夢だ。夢の中だ。
 明晰夢というのであろう。
 夢を夢として認識している状態であった。
 だからこそ、その異様に気づく。
 暗い、夜の闇よりもなお暗い。
 その中で、足にまとわりつく感覚、この、泥沼のような、感覚。
 そして、臭いだ。
 夢の中は臭いを感じないはずだ。
 そのはずなのに、むせ返るような臭いが、鼻孔を侵略している。
 鼻を押さえても、皮膚から、毛穴から、染み込むように、その臭いが入り込む。
 血の臭い、血反吐の臭い。
 この泥沼は、全てそれだ。
 粘度の高い、ヘドロのような、血と臓物、吐瀉物と糞尿。
 人の骨と皮と肉であったものが、ドロドロに溶けて混ざりあった沼だ。
 苦しい、息ができない。
 もがくが、出られない。
 そもそも、抜け出る場所などないのかも知れない。
「…………?」
 真っ暗な世界の向こうに、小さな光が見えた。
 すがりつくように、そこに向かう。
 一歩進むだけで一苦労などの血泥の中を、溺れるように進む。
 光が、少しずつ大きくなっていく。
 助けてくれ、助けてくれと、手をのばす。
 その光に、人の影が見えた。
「マーガレット………」
 見知った影、見覚えのある影。
 それは、マーガレットだった。
 悲しげな顔で、ジッと、オーランドを見つめている。
「すまない……君を……守ってあげられなかった……!」
 マーガレットはなにも答えない。
「あんなヤツに、君を殺させてはならなかった! 生まれてはいけない命があるだなんて、認めたくなかった!」
 今ようやく、オーランドは理解する。
 彼女を守りたいと思ったのは、証したかったのだ。
 生まれてはならない命などあるものかと。
 自分が散々言われてきたからこそ、自分だけはその理屈に飲まれたくなかった。
 世界中の人間が否定する命だとしても、せめて自分だけは、肯定したかった。
 自分の、ために。
 自分を愛せるようになるために。
「ダメなのか……俺は……やっぱり……間違っているのか……!」
 やはり、「生まれてはならぬ命がある」という事実を、受け容れなければならないのか。
 その理不尽が、苦しく、悔しく、悲しかった。
「え………」
 なにかが、聞こえた。
 それは、人の声のように聞こえた。
 まるで、光の波動が、そのまま音の形で、自分の聴覚神経を飛び越え、脳に直接響いたような声だった。
「なんだと………?」
 戸惑うオーランドの前で、光の中にいたマーガレットが、消えていく。
「マーガレット!」
 消える直前、マーガレットがわずかに、オーランドに振り向く。
 悲しげな顔、切なげな顔、そして、口元が僅かに動く。
「おねがい」――
 そう、口が動いていた。
 その意味を理解する前に、オーランドの体は、泥沼に沈んでいく。
 そして、そして―――

「うっ………」
 オーランドは目覚めた。
 見知らぬ天井が、視界に映る。
「あ……起きましたか」
 女の声が聞こえた。
(またか……)
 これで三度目である。
 またしても、フェイは不敵な笑みで、自分をあざ笑うように眺めているのだろうと思ったが――
(違う!?)
 声が違った。
 慌てて体を起こすと、オーランドの寝ていたベッドの隣にいたのは、諜報員の、アンリ・モモだった。
「モモ君……生きていたのですか!?」
 あの惨劇の中、生存者がいたことに驚き、そして、ほんの僅かだが、救われた気持ちになった。
「あ、はい……恥ずかしながら……」
 喜んで良いのかわからず、モモは、申し訳無さそうな苦笑いを浮かべる。
「いや……生きていてくれてよかった……本当に……!」
 一人でも助かった命があるのだ。
 喜んでならない道理は、ないはずだ。
「あの……生きていたのは、わたしだけじゃないんです」
「え……?」
 言われて、今さら気づいた。
 モモの腕の中に、もうひとりいた。
 小さな赤ん坊が、その手に抱かれていた。
「まさか……その……この子は?」
「はい、男の子です!」
 マーガレットの子供であった。
「生きて……いるのか?」
「はい、元気いっぱいですよ! 早産とは思えないくらい……」
 体が、震えるのが分かった。
 マーガレットが、あんな無残な死に方のさせられた彼女の宝は、壊されずに済んだのだ。
「神よ……感謝します………!!」
 心から、オーランドは神に祈った。
 胸の十字は壊れてしまったが、それでも、手を組んで、深く、頭を垂れる。
「あの分娩室……昔は、調理場だったんです」
 モモが、どうやって生き延びたかを、語る。
「床下に、お野菜とかを入れておく、収納があって……そこに、隠れていたんです」
「そんなものが……どこに……?」
「ベッドの下の辺りです……」
「なんと……!」
 分娩室の、惨状を思い出す。 
 マザー・アドリーンは、あの床下の収納を隠すために、あそこにで死んでいたのだ。
「最初は………マーガレットさんを、あそこに入れようとしたんです」
 モモの話では、“切り裂きジャック”は、突如現れたらしい。
 礼拝堂でオーランドが戦っていたその時、裏口を破って入り込んだ。
「でも、マーガレットさん……私に、この子を委ねて……」
 出産直後の母体は、余人が想像するよりも、遥かに衰弱している。
 場合によっては、そのまま死に至る者も少なくない。
「収納庫は、入れて、一人でした……」
 赤子を連れ、生き延びたとしても、その後どうなるか。
 助けが来るまでの間、数時間も耐えられるかわからない。
「お願いと、何度も……何度も言われました……!」
 だから彼女は、自らの命を放棄した。
 いや、違う!
 自分の命を囮にして、我が子を生き延びさせたのだ。
「マーガレット……!!!」
 オーランドは、声を上げずにいられなかった。
 死の直前にあり、意識も体力もほとんどない状態で、彼女は母として、最後まであらがったのだ。
「大したものだと思うよ、心からそう思う」
 部屋に現れる、もう一人の女――フェイであった。
「お前が……ここに連れてきたのか?」
「ああ、そこの小娘と、赤ん坊を見つけてな。オマエは錯乱状態でウザかったから、とりあえず気絶させた」
 言われてから、今さらあらためて、周囲を見回す。
「ここはどこだ……? お前の家か?」
「ん……ああ、私はロンドン市内に複数物件を持っているからな。そのうちの一つだ……しばらくは大丈夫だろう」
 市街には、家のない者も多いというのに、悪魔が複数家を持っているというのも、因果な話であった。
「おい小娘、ほれ!」
「は、はい? わぁ!?」
 フェイは、手に持っていた紙包みを投げてよこした。
「なんですか、これ?」
「粉ミルクと哺乳瓶だ。あといりそうなものを一通り揃えてきた。赤子は栄養摂取ができんとすぐ死ぬぞ、死なせたくなければさっさと食わせてやるのだな」
 粉ミルクが発明されたのは、19世紀の中頃。
 そして哺乳瓶も同じ頃に発明された。
 これらの存在によって、乳幼児死亡率は、大幅に下る。
「わ、わかりました! あ、フェイさん、その間、この子お願いします!」
「なに?」
 子供を持ちながら、ミルクを作るのは難しい。
 モモは、フェイに赤ん坊を託し、厨房に行った。
「私にさせるか……子守りを………ふむ」
 なんとも複雑な表情で、それでもフェイは赤子を受け取ると、慣れた調子でその手に抱く。
「意外に……慣れた手付きだな……?」
 悪魔の子守姿に、なんと言えぬ気分になりながら、オーランドは尋ねる。
「なめるなよ、オマエたちよか遥かに長命なのだ。赤子の扱いくらい経験はある」
「モモさんは……お前が悪魔だと、知っているのか?」
「自分からは話していないさ。聞かれたら答えてやるがな」
「無茶な……」
 いかな神の僕と言えど、いきなり面と向かって、「あなた悪魔ですか」と尋ねる人間などいないだろう。
「一応……オマエの友人ということにしておいた。それでいいな?」
「ああ、助かる……」
 聖職者が、悪魔に感謝の言葉を告げてしまった。
 だが、正直、あの状況下で、オーランドはどうしていいかわからなかった。
 自分一人ならば、はたして、生きていたモモと赤ん坊を救助できていただろうか。
 もしできていたとしても、安全な場所に逃し、粉ミルクまで用意してやれただろうか。
「俺は……無力だ……」
 マーガレットを守れなかっただけではない。
 全てにおいて、自分は役立たずと、痛感しないでいれらなかった。
「気にするな、アイツじゃあるまいに、全知全能に人がなれるか、傲慢だぞ」
「気にしないで、いられるかよ……!」
 それこそ傲慢な口調で告げるフェイであったが、慰めにはならなかった。
「そうだ……みんなの遺体は…どうしたんだ?」
 教会のシスターたち、なによりマーガレットたちを、少しでも早く、弔ってやりたかった。
「私は手を付けていない。そのままだ」
「なんだと!?」
 なんて無情な、とオーランドは憤りかけたが、
「冷静に考えろ。悪魔に弔われたら、天国にはいけんぞ」
「そうだった……」
 言われて納得してしまった。
「なら……今から、すぐに教会に……ここはどこだ? ホワイトチャペルじゃないんだろ?」
「やめておけ」
 ベッドから起き上がり、外に出ようとした彼に、フェイは静かに諌める。
「今日の新聞だ、惚れ」
 そして、代わりとばかりに、何紙の新聞を渡す。
「驚くぞ。全紙、一面は同じだ」

つづく

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