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ワトソン・ザ・リッパー 四章(1)

「おい」
 誰かの声が聞こえた。
 聞き覚えのある声、とても美しい声。
 だが妙に、おぞましい女の声。
「一つ聞いていいか? ここはいつもこうなのか?」
 その声の主を思い出す。
 思い出して、急激に、意識がはっきりした。
「フェイ!? なんでここにいる!?」
 目を開き、半身を起こす。
 目の前にいたのは、赤いドレスの美女、フェイ・ダーレンであった。
「なんでって……昨日言っただろう、”明日行く“と」
「なんだと……」
 周囲を見回す。
 礼拝堂の壁は破れ、屋根は砕け、扉は破れている。
 そこには日が差し込んでいる。
「一晩中……寝ていたのか……」
「なにがあった? 簡潔に説明しろ」
「そんなの……」
 見ればわかるだろう――と言い換えて、言葉に詰まる。
「ない……?」
“切り裂きジャック”の死体が、なくなっていた。
 それどころか、辺り一帯に吹き出していた血の痕もない。
 床や机や椅子ごと、その一体が、焼却されている。
「なんだと……どういうことだ……? なんなんだ……!」
 悪夢を見ているような気持ちになる。
 それも、とびきりの。
「ん…………」
 だが、夢ではなかった。
 夢ならば、感じないものを、彼は感じた。
「この臭いは……」
 かぎなれた臭い。
 それがなんであるか理解した瞬間、ぞくりと、体がこわばった。
「おいジェイムス君。教えてくれないかい?」
 凍り付くオーランドに、フェイは、心からの疑問を問いかけるように尋ねる。
「この教会じゃいつも、こんなに血の臭いをさせているのかね?」
 漂ってきたのは、血の臭いであった。
 それも、一人や二人ではない。
 十人近い人間が、その体内の血をほぼだしきったごとき、大量の血の臭いであった。

「ああああああああっ!!!」
 分娩室に向かったオーランドは、目の前に広がる光景を前に、絶望の叫びを上げる。
 そこは、一言で言えば、地獄であった。
 教会のシスターたちが、全員、物言わぬ躯となって横たわっていた。
 分娩台代わりに使われたベッドの脇には、腹を刺し貫かれ、すでに冷たくなっていた、シスター長のマザー・アドリーンが倒れている。
 責任感の強い彼女のことだ、きっと最後まで、凶刃を振るう何者かに抗ったのだろう。
 その後ろにいる、彼女を守ろうとして、殺されたのだろう。
「なんで……なんで……なんで……!!」
 ベッドの上には、マーガレットが横たわっていた。
 正確には、マーガレット“だったもの”が横たわっていた。
「どうして……なんで……“切り裂きジャック”は、倒した……はずなのに……!」
 あまりにも、酷い死体であった。
 腹は裂かれ、臓器は抜き取られ、体中が切り刻まれている。
 それこそまるで、「熟練の検死官が、検死を行った」かのような。
 命なき瞳が、わずかに横を向いていた。
 最後になにを見たのか、一体いつ、最後を迎えたのか、考えたくもない、むごたらしい光景であった。
「これは……なんとも……凄まじいな」
 呆れたような、感心したような声で、あとからやってきたフェイが言う。
「オマエは……昨夜、“切り裂きジャック”を倒した……礼拝堂のあの乱れようは、それだったわけだな。だが……そうか……やはり、そうか……」
「やはり、だと……?」
 聞き捨てならない言葉に、オーランドは反応した。
「こうなると………分かっていたのか! フェイ・ダーレン!」
「落ち着け、さすがにここまでは予想外だ。だが……“切り裂きジャック”が他にもいるのならば、さらに複数いてもおかしくはなかろう?」
「俺は……おびき出されたというのか……?」
“切り裂きジャック”は複数いた。
 あの全身甲冑の大男は陽動。
 オーランドが戦い、倒した後、さらに別の“切り裂きジャック”が現れ、シスターたちを、マーガレットを惨殺し、残った物証を全て処分して、立ち去ったということだ。
「だがそれだと、解せんことがあるな……」
「どうでもいい……」
 もはや頭の中は、怒りでいっぱいであった。
 どす黒い怒りと殺意と憎悪が、彼を支配していた。
 あっていいわけがないのだ。
 こんな死に方をしていい人間が、一人でもいていいわけがない。
「フェイ・ダーレン……教えろ! 誰だ! 誰がこんなことをした!!」
「落ち着けジェイムス君、さすがにまだわからん」
「黙れ! お前は悪魔なんだろう! なら、人がわからぬこともわかるんだろう! 教えろ、教えてくれ!!」
「だから……」
 きかん坊を前にした母親のように、フェイは額に手を当てていた。
 今のオーランドは、理屈の通じる状態ではない。
 冷静な思考ができる状況ではない。
 ならば――
「ふんっ!!」
「ごっ!?」
 突如、フェイは拳を、オーランドの腹に叩き込んだ。
 しかも、ただの拳ではない。
 一本拳――中指を立て、確実に急所にダメージを与える型である。
 それを鳩尾に喰らい、そのままバタリと、オーランドは倒れる。
「さて………」
 倒れたオーランドを見下ろし、どうしたものかと思案するフェイであったが、彼女の耳に、音が入ってきた。
「ああ、ジェイムス君。だから落ち着けと言ったんだ」
 オーランドが喚き散らしていたせいで、耳に入らなかった音が、ようやく聞こえるようになった。
 人の呼吸音。
 それも二つ。
 一つは成人の女性。もう一つは、赤ん坊だった。
「出てこい、安心しろ、取って食ったりはせん」
 棚の後ろに隠れていた、その女に、フェイは告げた。


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