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ワトソン・ザ・リッパー おわりがたり(2)

 そして、半年ほど時が流れる――
「だーかーらー! いい加減俺を、“ジェイムスくん”と呼ぶな! それはもう俺の名前じゃない!」
 ベーカー街の片隅にある下宿宿の食堂にて、ワトソンは声を荒らげる。
「俺の名前は、ジョン・H・ワトソンだ! お前がそう名付けたんだろうが!」
 朝食を囲みながら、いつまでたっても、わざと名前を間違えるフェイに、ワトソンは苛立ちを隠しきれなかった。
 なにせかつてはロンドンで“切り裂きジャック”として指名手配されたのだ。
 もし万が一、それがきっかけで経歴がバレてしまえば、またしても厄介なことになる。
「いやぁすまんすまん、ついうっかり間違える」
 コーヒーをたしなみながら、フェイは反省の色を見せず、生返事を返す。
 無駄であることを、ワトソンは知っている。
 この女は、慌てる自分の姿を見ることも、娯楽として楽しんでいるのだ。
「おやおや、朝からにぎやかだねぇ。僕も仲間に入れてくれないかい?」
 朝日も高くなってから、今さらのように二階から降りてくるホームズ。
「勘弁してくれ……この女だけでも持て余しているのに、お前まで加わったら、いい加減俺の胃に穴が開く」
「こりゃ言われたもんだ」
 椅子に腰掛け、肩をすくませるホームズ。
 ベーカー街の名探偵、として近年その名を知られるようになった彼。
 だが、誰が想像できるであろうか。
 彼は名探偵でもなんでもない、ただ異常なまでに口の回る男。
 跳梁跋扈する、人間社会の闇に紛れた闇の者たちの騒動を、さもそれっぽく理屈をつけ、人間の起こした殺人事件にこじつける名手なのだ。
 全ては、この家の持ち主である、悪魔の美女の腹を満たすためのシステムなのだ。
「おはよーございまーす!」
 そこにさらに人が増える。 
 裏口から現れたのは、ホームズの身の周りの世話をしている、明るく活発そうな、街の少年――ではなく、少年の姿を装った少女、モモであった。
「おやモモくん、おはようさん」
「どうもです! ホームズさん!」
 ワトソンと同じく、ヴァチカンの戻ることもできなくなったモモは、フェイのすすめで小間使いとして彼女の家に住み込んでいた。
「面白い話を聞いてきたんですよ。あのですね、赤毛の人だけを集めた不思議な互助会の噂なんですよ」
「ほうほう、それはおもしろそうじゃないか、詳しく話をきかせ給え」
 調査員時代のコネもあり、彼女は街で起こった様々な情報を、こうしていつも持ち込んでくる。
「またか……いい加減こういう、面倒事に、こっちから首を突っ込むのは、やめるべきじゃないのか、フェイ?」
 いつもこの調子である。
 なにか奇妙な事件が起こるたび、頼まれもしないのに介入し、様々な騒動を起こしている。
 その矢面に立たされるのは、いつだってワトソンの仕事である。
 先日のバスカビル家事件のときも、まさか蘇った古の魔犬と戦わされる羽目になるとは思っても見なかった。
「こらこら、忘れてはいけないぞ? オマエたちロクデナシたちに、寝床と食事と、小遣い銭までくれてやっているのは、どこの慈悲深い女主人サマだったかな?」
「くっ………!」
 悪魔というのは、意外と契約に関しては公正なものを結ぶ。
 自分に、糧である“楽”を運ぶ代償として、それ相応のものは提供しているのだ。
「わかったかね、ジェイムスくん?」
 そして、ダメ押しとばかりに、またしても、わざと名前を間違える。
「だからフェイ、俺は――」
 それでもなお、その度に訂正させるワトソンであったが、その前に、その口元に指をあてられ、言葉を止められてしまった。
「それを言うならこっちこそだ、ワトソンさん? 私の名前はそうじゃないだろ?」
 フェイ・ダーレン、その名は裏の名前。
 悪魔である彼女としては、それすらも表なのだが、一応公式に、社会に名乗っている名前は別にあるのだ。
「はぁ……わかったよ、まったく変なところにこだわる」
 しぶしぶと、ワトソンはフェイの要求に応じた。
「ハドソンさん、これでいいんだろ?」
 ベーカー街のアパートの大家――おそらく、世界で最も有名な大家として、人々の記憶に残ることになる“ハドソン夫人”である。
 だが彼女の正体は、恐ろしく謎に包まれている。
 経歴はおろか、年齢、それどころか、フルネームさえ。
 それもまた、この悪魔の仕込んだ「娯楽」であることに、気づけた者は、誰もいない。



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