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ワトソン・ザ・リッパー 五章(6)

それは否定。
 自分を人であることを、否定することで得られる領域。
 これだけはしたくなかったと、彼自身が忌み続けた領域。
「お……オーランド神父……?」
 目の前で起こった状況に、アルバートも言葉を失う。
 オーランドの体、ビキビキときしみ、ひび割れ、裂け、ちぎれ、そして、急速に再生していく。 
 否、再生、とは異なる。
 人間の体が壊れ、人間でないもの体に、再構成されていく。
「それは……これは……これが………悪魔!?」
 変わり果てたオーランドの姿は、まさに悪魔であった。
 どす黒い肌、鋭い鉤爪を擁した手足、耳まで裂けた口に、爛々と光る赤い瞳。
 なにより、見る者に問答無用の悍ましさを感じさせる、その存在感。
「悪魔……あなたは……ひ……ひいいいいいっ!?」
 恐怖の悲鳴を上げるアルバート。
 それこそが悪魔であった。
 全ての人間に、恐怖を与える存在。
「そうだアルバート……君は悪魔などではない。悪魔は、悪魔を恐れない」
 その声すらも、もはや元のオーランドのそれは残っていなかった。
 枯れ木の虚に、風が吹き込んだ時に起こるような、そんな耳障りな、雑音であった。
「悪魔を恐れるのは……いつだって人間だ」
「あ、ああああ………」
 恐怖にいすくむアルバート。
 聖女の遺灰を鋳込んだ甲冑を着込んでも、防ぎきれない圧倒的恐怖。
 そんな彼に、悪魔とかしたオーランドは、両の手を掲げる。
 古き昔、オーランドの祖先にあったのは、地獄の大侯爵アンゴラス。
 剣もてし、魔狼にまたがりし、虐殺の悪魔。
 物質だけでなく、概念すらも、断裂させる。
「死ね」
 繰り出したのは、「アンゴラスの刃」――無尽の刃。
 それは、それは全てを斬り刻む。
 鉄であろうが、石であろうが、人であろうが。
「あっ……………」 
 アルバートが最後に放てたのは、その一言であった。
 直後、彼の体は崩れさる。
 物質の最小の「つながり」、分子の結合まで切り刻まれ、彼の体は、砂のように崩れ去った。
 オーランドがしてやれることは、一つだけだった。
 彼を、アルバートを、「人として殺してやる」ことだけだった。
 だが、まだ終わりではない。
 まだ最後に、やらねばならないことが、残っていた。

「あわわわわわわ……!」
 耳を抑え、目をつぶり、赤子を抱きしめ、モモはひたすらうずくまっていた。
 自分の後ろでなにが起こっているのか、それを知るのが怖かった。
「おい、もういいぞ」
「ひぃ!?」
 ようやくフェイに肩を叩かれ、なにもかもが終わったことを知る。
「なにが……あったんですか? なにを……したんですか?」 
 立ち上がり、振り返ると、そこには、転がる蒸気甲冑たちがあった。
 それらの中身は空っぽになり、バラバラに転がっている。
 しかし、傷の一つもついていない。
 なんの戦闘の痕跡もない。
 まるで、すっぽりと、中の人間だけをこの世から消し去ったようであった。
「メアリーセレスト号というのを、知っているか?」
 この頃より、十五、六年ほど前に起こった怪奇事件である。
 全てが、今さっきまで人がいたような状態のまま、ただ、人だけがいない状態で、漂流していた船の話である。
「あれと似たようなものさ」
「はぁ……」
 モモにはなにが起こったか、想像もできなかった。
 ただ、そういう事が起こったのだろうと、「人知を超えた」ことを、この美女が起こしたのだろうと、理解した。
「あの……オーランド神父は大丈夫でしょうか……その……アルバート王子は……」
「そちらもまぁ、終わったようだな」
 ついと、フェイは夜空を見上げる。
 直後、夜の闇の一部が襲来するように、なにかが迫る。
「ほう……男前になったな」
 ドガンという轟音を上げて着地したのは、悪魔であった。
 いや、姿まで悪魔と化した、オーランドであった。
「ひいいいいいっ!?」
 突如現れた本物のバケモノを前に、モモは気絶しそうになる。
 当然である。
 人は悪魔を恐れるものなのだから。
「モモさん……フェイ……無事だったか、よかった……」
 轟々と、吹き荒れる嵐のような声で、悪魔は「モモさん」と呼んだ。
「まさか……オーランド神父……?」
 他に考えられず、現実離れした現実に、モモは呆然とした。
「クククッ……」
 それすら全ておもしろそうに、フェイは笑い、そして、どのようにして決着を付けたのか、問いかける。
「それで、どうしたね?」
「殺した。終わらせた」
「ああそうか、他にはないからな。よくやったもんだ」
 そのやりとりだけで、フェイは彼になにがあったのか、十分に理解したのだろう。
 人として殺してやる以外に、救いのないものを、救ったのだ。
「ん……これは……まいったな」
 大通りの向こうから、複数の自動車が向かってくる。
 赤旗法が施行され、市内を走る車は、駆け足程度の速度しか認められていない中で、あんな速度が許可されているのは、警察車両のみである。
 サイレンを鳴らし、警官たちが迫っている。
「これだけ騒げばなぁ、そらまぁ来るか」
 人通りの少ない場所とは言え、密談程度ならともかく、悪魔と蒸気甲冑が一戦交えたのだ。
 誰かが気づき、通報もしようというものである。
「さてどうする?」
 悪魔の姿と化したオーランドの姿を見れば、警官でなくとも大騒ぎだ。
 ここは、一旦退散するのが上策であった。
「いや、ちょうどいい」
 しかし、オーランドの選んだ手段は、別であった。
「モモ、さん……」
「は……はい……」
 悪魔に話しかけられ、それがオーランドとわかっても、いすくみ震えるモモ。
 彼女に、オーランドは言う。
「その子の名前………アルバートからは、聞けなかった」
 考えていたのかどうかもわからないが、聞く前に、彼はこの世から消え去った。
「だから、俺の名をあげてくれ。もう、使わないから」
 だから、彼は代わりに、自分の名を進呈した。
「アルバート神父……なにを……考えているんですか!?」
 その言葉の中に、不穏を感じ取ったモモが叫ぶが、オーランドは答えない。
 警官隊の車に向かって、悪魔の姿のまま、歩を進める。
「何者だ!」
 車が止まり、ライトが彼を照らす。
「な、なんだコイツは!?」
「ば、バケモノ!?」
 悪魔の姿を前にして、警官たちは、至極当然な反応を返した。
「バケモノが、女を殺そうとしている……?」
 背後にいるモモやフェイを見て、それ以外ありえない光景であった。
「ああ、そうだ……そのとおりだ………」
 満足そうに、オーランドは――否、オーランドであった悪魔はつぶやく。
 そして、決意したように息を吸うと、在らん限りの声で叫んだ。
「我こそは、切り裂きジャック!! 地獄より来たりし、悪魔なり!!」
 これが、彼の最後の務めであった。
 残された赤子のために、父親が切り裂きジャックであり、母を殺し、自分を殺そうとした事実を、この世から永遠に抹消するために。
 そのためには、アルバート以外の者が、“切り裂きジャック”でなければならないのだ。
「バケモノが!!」
「撃て、撃て!!」
 確認を取るまでもなく、警官たちは銃を放つ。
 弾丸が、容赦なく、悪魔の体に当たる。
 だが、そんなものでは、悪魔の体を傷つけることはできない。
 人間に使う武器で、人間でないものを、殺すことはできない。
 だから、こうするしかなかった。
「哀れにして脆弱な人間どもよ! お前たちで遊ぶのももおう飽きた! 俺は地獄に帰らせてもらう!!」
 右手を刃に変え、そのまま、自分の左胸を貫く。
 どぶりと、ヘドロのような血が溢れ出す。
「さらばだ、人間ども! 我が名を忘れるな! 切り裂きジャックを忘れるな!!」
 そのまま、建築途中のタワーブリッジから身を翻し、テムズ川に落ちる。
 これで全てを終わらせるため。
 全ての罪と闇を背負って、なかったことにするため。
 名もなき悪魔は、落ちていった。


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