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ワトソン・ザ・リッパー 五章(2)

 ロンドンの中心部を流れるテムズ川。
 そのテムズ川に掛かる橋で、最も有名なのは、マザー・グースにも歌われた、「ロンドン橋」であろう。
 かつてこの地を治めていたローマ人が築いたのが始まりと言われ、その後、戦争や紛争、災害や人災によって、落ちては建て直され、建て直されては落とされる。
 この頃、五十年ほど前に、六百年ぶりに新築され、七十年ほど後に、それもまた建て直される。
 ロンドンに住む者ならば、「この街を象徴する橋と言えば」と問われれば、誰もがこの橋を挙げるだろう。
 だが、それも、変わるかもしれないと言われはじめていた。
 ロンドン橋のさらに下流、ロンドン塔のある辺りに新たな橋が建築されていた。
 最新型の、蒸気機関により、橋梁開閉機構を備えた、前代未聞の橋。
 完成の暁には、世界中の人々の注目を浴びるだろうと、すでに話題になっている。
 その橋の名は、タワーブリッジ――
 そこに、オーランドたちはいた。
「そろそろ、時間だな」
 建築途中の橋の上に、オーランドとフェイ、そしてモモ、さらに、彼女の腕の中の赤子がいた。
 いずれは、巨大な二本の塔がそびえ、両岸をつなぐタワーブリッジであるが、まだ着工から二年、つなぐどころか、塔もできておらず、土台がようやく完成したところである。
 時間は深夜、すでに工事の作業員は撤収し、誰もいない。
 ロンドンの真ん中にありながら、ここほど、人がいない場所もないだろう。
 密会には、最適であると言えた。
「ここに、サー・ウィリアムが来るんですよね」
 赤子をあやしながら、モモが言う。
 この時間に、アルバートに事の次第を報告したガルから、彼が名付けた「赤子の名」を聞くことになっていたのだ。
 そしてその足で、フェイの手引で、赤子は遠い国に運ばれる。
「ああ………しかし、その、モモ……良かったのか?」
「なにがです?」
「だから……」
 オーランドが乗った、フェイの計画は、ヴァチカン本庁の意志に背く行為である。
 自分一人ならともかく、モモにまで連座させるのは、忍びなかった。
「わたし、父親がユダヤ人なんですよね」
「!」
 その答えとばかりに、モモは、当たり前のような口調で返した。
「だから……けっこういろいろ、言われました。嫌な目にもあったし、悲しい時もありました。なんでって……思ったこと、たくさんありました」
 ユダヤ人の歴史は、迫害と差別の歴史とも言われている。
 様々な時代、多くの権力者、為政者、後世に英雄や偉人と讃えられる者たちからすら、嫌悪され、蔑視されてきたのだ。
 その理由は多岐にわたるも、この時代は、比較的それが弱まっていた頃である。
 とはいえ、半世紀後に、歴史上最悪の虐殺の被害者となるのだが……
「この子が、同じ目に遭うのは、やだなぁって思いました」
 どこか寂しげな顔で、モモは笑った。
「そうか………」
 いつも明るく、暗い顔を見せないモモだが、決して小さくない過去を背負っていたことを知る。
「それに……わたしを生かしてくれたのはマーガレットさんです。その恩を返さなきゃ、いけないですよ」
 何度も、「お願い」と言われ、託された赤子なのだ。
「大丈夫です。神様だって、目をつぶってくれます。何度も何度、ごめんなさいって謝れば……きっと……その……ちょっとお仕置きされるくらいですみますよ」
「そう……かな……」
 こればかりは、神ならざる者には、想像もできない話であった。
「多分、その程度ですむと思うぞ」
 ただ、神ではないが、人でもないフェイが、くだらなそうにつぶやいた。
「来たか……」
 そんなことを話しているうちに、道の向こうから、馬車が近づいてきた。
「なんとも悪趣味だな」
 現れた馬車は、真っ黒だった。
 車輪も、御者台も、屋根も扉も、窓ガラスさえ、すすで黒く染め、引いている馬の馬具まで真っ黒であった。
 ここまでいくと、悪趣味を通り越して、持ち主の偏執的なこだわりに、おぞましさすら覚える。
「ああ。よかった、オーランド神父、間に合いました」
「あなたは………アルバートさん!? いや、アルバート殿下……!」
 一同の前に止まった黒塗りの馬車から現れたのは、アルバートであった。
「なぜここに! サー・ウィリアムはどうしたんです?」
 彼は、今最も、この場にいてはならないはずの人物である。
 ガルが、手引をまちがえたのかとさえ思った。
「お気持はわかります……でも、せめてひと目……僕と、マーガレットの子供を見たかったんです!」
「気持ちは……わかりますが……」
 今彼がここにいることが明らかになれば、さらに問題は複雑化する。
 愛する者との子供を思う気持ちはわかるが、それでも軽率な行動であることに変わりはない。
「その子が……僕の……子供なんですね……?」
 そんなオーランドの心中も無視して、モモの腕の中に眠る赤子を見て、嬉しそうにアルバートは近づく。
「まいったなぁ………」
 言いながらも、オーランドはやむをえないかとも思った。
 せめて、あの赤ん坊に、父とわずかでも触れ合わせたくないと言えば、ウソになる。
 この程度なら、なんとかなるかと、フェイに問いかけようとしたところで、オーランドは顔をこわばらせた。
「ふふふ………」
 フェイが、笑っていた。
 微笑ましそうに、ではない。
 これでもかという、滑稽な狂言を楽しむ顔であった。
 人間同士の、エゴのぶつかり合い、騙し合い、殺し合いを、「娯楽」として楽しむ女が笑っているのだ。
「待て!!」
 考えるよりも先に、オーランドは怒鳴った。
 王族にある者に、怒鳴りつけて制止を命じた。
「なんです……オーランド神父……?」
 背中を向けたまま、アルバートは尋ねる。
「済まない……その……待ってくれ……」
 なんと言えばいいのわからない。
 だが、彼をこれ以上赤ん坊に近づけてはならないと、感じた。
「正解だ、ジェイムス君」
 代わって、生徒を褒めるように、フェイが言う。
「最後のピースがやっと埋まった」
 そして、メインディッシュが運ばれてきたような顔で笑う。
「今回の件でな、いくつか……謎が残っていたんだ」
 そして、最後の推理を語り始める。
「最初に気になったのは、なぜジェイムス君は殺されなかったのか、だ」
 教会に襲撃を受け、“切り裂きジャック”の一人であった蒸気甲冑の装着者と、オーランドは戦い、力を使い果たし昏倒した。
 その後、襲撃者たちは、自分たちが訪れた証拠を、燃やして処分したのに、気を失っていたオーランドには危害を加えずに去っていった。
「次に、マーガレット嬢への殺し方だ」
“切り裂きジャック”は、あくまで、劇場型殺人鬼のフリをした、国家による暗殺。
 狂気の殺人鬼はただの演出である。
 マーガレットを殺すにしても、市井で噂されているような、残酷な殺し方をする必要はない。
 そんなものは、死体を回収した後、それらしく加工すればいい話で、現場で行うのは却って無駄な証拠を残すことになる。
「そして最後に、なぜあの日に、“切り裂きジャック”は現れた、かだ」
 場所を知っているのであれば、もっと早く襲う機会はあった。
 なぜ、あの日、あの時だったのか。
「アルバート殿下……貴様は、知っていたらしいな。あの日、マーガレット嬢が、出産することを」
「なんだと!?」
 初めて聞く情報に、オーランドは戸惑う。
「モモから聞いた。言伝が、届いたそうだな」
 それは、オーランドも知らなかった事実。
 アルバートは、マーガレットへの連絡手段を、ホワイトチャペル内の、そういった貴人と賤民との間をつなぐ、「連絡屋」に代行していた。
 そもそもマーガレットが、夜中に彼の待つ店に向かったのも、その連絡があったからだ。
「そういえば……」
 ようやく思い出す。
 教会に戻り、マーガレットの出産が近いと聞いたモモは、「どこかから帰ってきた」ところだった。
「産気づいたマーガレットは、子供が生まれることを、モモに頼み伝言を飛ばした。貴様はそれを見た。そしていてもたってもいられなくなって、教会に来た。そして――」
 フェイは笑いながら、想像しうる内、最低最悪の真実を口にした。
「マーガレットを殺した

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