ワトソン・ザ・リッパー 四章(3)
「なんのつもりだ……?」
困惑しつつ、その一紙を見て、オーランドの眼は見開かれる。
「なんだとう!?」
そして、大声を上げた。
「びええええええっ!?」
その声に驚き、フェイの手の中の赤ん坊が泣き出した。
「おーおー、びっくりしたか。悪い神父様だな、ククク」
その驚きも、彼女には愉快痛快なものなのか、ニヤリと笑っていた。
「なんで……こんな……?」
各新聞、全ての一面は、表現こそ違えど、同じニュースを報じていた。
曰く「切り裂きジャック、五件目の犯行」。
曰く「被害者は、街の娼婦、メアリー・ジェーン」。
曰く、「ヤードは容疑者として、彼女とともに歩いていたところが目撃され、現在消息不明のホワイトチャペルの神父、ジェイムス・H・オーランドを捜索中」。
「なんだこれは!?」
目を疑う内容であった。
真実などどこにもない。
唯一正しいのは、容疑者として載っている、自分の名前だけである。
「メアリー・ジェーンだと……? 誰だ!? なんで俺が殺したことになっている!?」
「おそらくは……アニー・マーガレットか……彼女の存在を、記録から抹消したいのだろう」
教会の下働きとしてではなく、街の娼婦として、“切り裂きジャック”に殺された。
それが間違いだと、証明できる者はいない。
少なくとも、彼女が働いていた教会の者たちは、モモとオーランドをのぞいて、皆殺しにされたのだから。
「モモか……あの娘の生存は、気づかれていないようだな。だからあとは、オマエを犯人として捕らえれば、一件落着だ。記録などどうとでも操作できる」
「レストレードか! 彼が!!」
あの刑事が、あれだけ警告したのに、自分をハメたのかと思った。
「違うな……見ろ」
「ん?」
「そこじゃない、三面の下の方に、あるだろう?」
「なにが……?」
そこには、小さく数行の記事が載っていた。
曰く「テムズ川で、身元不明の男性の遺体が発見される」。
「これが……なんだ……?」
「レストレードだよ」
「なに! で、でも……」
記事には、身元不明としか書かれていない。
「表には出されない情報筋から聞いた。死体は、顔面を薬物で溶かされて判別不可能。そして、他に身元を特定できるようなものは、所持品からなにから、全てなかったそうだ」
「それが……でも……」
「さらには」
信じられぬオーランドに、フェイはさらに真実を告げる。
「今朝方、ヤードでは、我々の知る“レストレード”は、突然退職したそうだ。そして、本日付で、同名の“レストレード”が着任したそうだ」
「待て、待て、待て!!」
頭がおかしくなりそうな話の連続に、オーランドの声は再び大きくなる。
「待ってやるから落ち着け、また赤子が泣くぞ」
また赤ん坊が泣き出さないように、左右に適度に揺らしながら、フェイが言う。
「つまりだ。処分されたのさ」
レストレードは、“切り裂きジャック”計画とも言えるものの存在を、認めてしまった。
生き証人である彼が生きていれば、そこから気密が漏れる。
それ故に、処分された。
「おそらく、記録自体が盛大に改ざんされているころだろう。私の用意した証拠も、最初からなかったことにされている」
「そんなことが……できるわけ……できるのか……?」
「不可能ではないさ。国家は意外と怪物だぞ」
かの有名な、英国秘密情報部――MI6が誕生するのは、今より二十年以上後である。
だが、様々なメディアで、半ば公然と語られていたにもかかわらず、英国政府がその存在を公式に認めたのは、創設から実に八十五年後のことであった。
「いろいろと、そういうことに長けた者たちもいつのだろうよ」
故に、「公式に」創設された年よりも以前から、同様に暗躍していた者たちがいたとしても、おかしくはない。
「知り合いの兄が、以前そういう話をしていた」
「つまり……後は……俺だけということか……」
そして最後に、自分が犯人として逮捕――いや、そこまでする必要もない。
抵抗しただのなんだの理由を付け、その場で殺せばいい。
稀代の劇場型殺人鬼の物語も、これで終わりである。
「待て………その子は……どうなる?」
フェイの腕の中に抱かれている赤ん坊。
今にもぐずりだしそうな、その小さな命のことを、思った。
「どう、なんだろうな……この事件の全ての背後にいる者にとって、この子の重要性がどれくらいの位置にいるのか、いまいち掴みきれていない」
“切り裂きジャック”とは、ヤードが捏造した狂言殺人鬼――ではなく、もっとさらに巨大な背後があり、ヤードですら、その一端を担っていたに過ぎない。
「オマエはどうする? オマエ一人なら、上手くすればイギリスから逃げ出すくらいは可能やもしれんぞ?」
まるで試すような目で、フェイが問いかける。
「考えるまでもない」
だが、迷いはなかった。
答えは決まっていた。
「その子を守る。必ず、生き延びさせる。それが彼女の、マーガレットの願いなんだ」
命を奪われ、その存在すら抹消された娘の思いを、穢させたくはなかった。
「それはオマエの任務なのか? “悪魔の末裔”」
「俺自身の願いだ」
「なるほど」
挟み込んだ皮肉すら通じさせない決意を見て、フェイは笑う。
「なら……とことん行くしかあるまいな。この一件の全てを明らかにする。姿も見えぬ、正体もわからぬ、だが国家すらからむ“敵”の目的を見極めねばならない」
さもなくば、生まれたばかりの赤ん坊は、「生きる」という選択すらできない。
「そして、その目的が、この赤ん坊の生存を阻害するものならば……」
その時は、その巨大な“敵”と、戦い、勝利しなければならないのだ。
「覚悟の上だ」
警告した上で、理解した上で、なおも、オーランドは答えを変えなかった。
「わかった。ならば手はある。その手を打つとしよ――」
「うぎゃあああああっ!!」
フェイが言い終わる前に、赤子がまた泣き始めた。
「ああ、なんだ? どうした……ああ、う、むこりゃいかんな、腹が減っているらしい」
「おまたせしましたー!」
そしてそこにちょうど、ミルクの入った哺乳瓶を手に、モモが戻ってきた。
「うむ、ナイスタイミングだ。それをよこせ」
さっそく飲ませようと、哺乳瓶を受け取ろうとしたところで、フェイの手が止まる。
「どうしました? あ、熱いので気をつけてくださいね」
「阿呆かオマエは!?」
「なんですかいきなり?」
阿呆呼ばわりされて、不機嫌な顔になるモモ。
タオル越しに持った哺乳瓶を手に、頬を膨らませている。
「赤子に飲ませるものが、布を使わんと持てんくらいの熱さでいいわけがなかろう」
「え、ダメなんですか? だって沸騰させたほうが、消毒になるじゃないですか?」
言われてなお、その意味がわかっていないモモであった。
「ああもういい、私が作り直す。オマエ着いてこい、しっかり見ておけ!」
この世の快楽悦楽をたいがい味わい尽くしたと豪語する“悪魔”フェイ。
その人生(?)経験がいかなるものであったかは、余人の想像に及ばぬが、どうやら、ミルクの作り方に、飲ませ方まで経験しているようであった。
二人揃って、部屋を出て、厨房に向かっていく。
「まずその前に、赤ん坊の世話をできるようにならないとな……」
その姿を見送りながら、オーランドは乾いた笑いを浮かべた。
生き死にの前に、まずは食べさせてやらねば、問題外なのだから。
つづく
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