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ストレスに強い人ばかり採ってよいのか

よく採用における求める人物要件で、「ストレス耐性」というものが挙げられる。特に、メンタルヘルスの問題が大きくなってきてからは、とみに「ストレス耐性の高い人を採れ」と喧しい。

しかし、一概に「ストレス耐性」と言っても、いろいろある。筋の良いものと悪いものがある。

例えば、鈍感な人はストレス耐性が高い。自分に対する攻撃やダメ出しに気づかないのだから、ストレスをストレスと感じないから、耐性は高くなる。彼女に嫌われているにも関わらず、「いやいやいや恥ずかしがっちゃって」とか言っている痛い男のイメージ。こういうストレス耐性の高さはいいのだろうか。

また、他責の人もストレス耐性が高い。何が問題が起っても、「俺のせいじゃない。あいつが悪いんだ」と明るく言える人は、おそらくストレスをやり過ごしやすいだろう。しかし、周囲の人はその人によって、かなりの迷惑を被ることになる。組織全体として見た場合の生産性はどうなるだろうか。

一方、物事を良いように意味付けできる力のある人は、これもストレス耐性が高い人と言える。同じ単純作業をしていても、「くだらないなぁ」とだけしか思えない人はその作業はさぞかし苦痛なことだろうが、「僕のした単純作業がこの世界を回り回って、どこの誰かも知らない人の笑い顔を作っていく」とか思えるのであれば、幸せな気分になれる。

自己効力感(あることについて、自分は多分できるという推測)や世界に対する基本的信頼感(別名、「根拠のない自信」)の高い人も、強いストレスにも負けずに、新たなことや未知なこと、リスクのあることに対峙する力を持つストレス耐性の高い人と言えるだろう。

前者は、自分はよくても周囲には悪影響を与えることのある「筋の悪い」ストレス耐性と言えよう。後二者は、総称すればポジティブ・シンキングとも言える、周囲に悪影響を与えない「筋の良い」ストレス耐性と言えよう・・・しかし・・・僕は思う、後二者であったとしても、本当にストレスに強い人だけで構成されている組織が最高の組織なのだろうかと。

某社でよくあったことだが、間違った戦略の下でストレス耐性の高い人たちが頑張って目標を達成してしまう。すると間違った戦略は温存され、さらに厳しいストレスにさらされることになり、そしてどこかの時点で崩壊する。

また、江戸幕府が仏教を庶民に広めたのは、他の世界宗教と同様に、仏教が現状改革ではなく、現状の「認識」を変えることで幸せになるという教理を持つ宗教だったからではないかと思う。現状の保全を図る為政者にとっては、現状改革思想は危険思想にも見えるが、ポジティブ・シンキングで現状の認識を変えるだけで幸せになってくれるのであれば、これほど楽なことはない。しかし、本来変えるべきものを変えないまま先延ばしにしても、待っているのはこれまた崩壊である。

ストレスに弱い人を排除しようとする動きがある。ストレスに弱い人は、組織の問題のしわ寄せを受けやすく、倒れやすい。だから、排除しようとするのだろうが、なんと浅薄な考えだと思う。彼らは、組織問題のアラートを身を以て示してくれているのであり、排除するのではなく「ありがとうだろっ!」と思う。彼らがいることで、組織は改革の必要性を感じることができる。

何事もバランスであるとは思うが、一定の割合で、敏感な感受性の強い、ストレスには弱い人も組織にいることで、組織の変化対応能力や多様性の維持が可能となるのではないだろうか。

最近よくある、過度にシンプル化して物事を考えようとする一連の傾向のように、組織の求める人物像も単極化して、何か一方の特質だけが素晴らしいとすることには大体反対なのだが、ストレス耐性のような一見すると「そりゃ高い方がいいよね」と思えるような特質についても、同様に僕は反対です。

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