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台湾近代史シリーズ(1860~1895) 〈1〉

第1章 スウィンホー  

 台湾が世界に対して開かれたのは、1860年に結ばれた天津条約の規定によるものだった。天津条約というのは、アロー戦争とも呼ばれる第2次アヘン戦争の結果として、清と英仏の間に結ばれた条約で、1842年の南京条約以来の五口貿易(広州、アモイ、福州、ニンポー、上海の5港を対外開放して、貿易を行う方式)を改め、新たに約10の港を開放するというものだった。その10の港のうちの2つが、台湾の港で(北部の淡水と南部の安平)、事実上、これら2つの外に、更にキールンとタカオという南北の2港も、新たに開放されることになる2港の補助的役割を果たす港として同時期に開放された。

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 当時、英仏等の欧米列強が台湾に目を付けた原因としては、後に注目されることになる、台湾の地理的な戦略位置ということではなく、単純に台湾で生産される産物のほうに目が向けられたということのようである。その産物とは、1つは樟脳(カンフル)と呼ばれる、クスノキから取れるこの樹脂を精製したもので、その後、セルロイドや無煙火薬等の原料として、特に、1970年代のドイツの工業化を支える貴重な原料になった。もう一つの産物とは石炭である。

 台湾の真向かいにある福建省は、アヘン戦争後の五港による貿易の時代から、開かれた5港そのうちの2港(福州とアモイ)を開放し、外国人の居留地等も設置されていたが、山がちな地形で、交通が発達しにくいこともあって、地下天然資源にはかなり乏しかった。蒸気船を運航させるには、当然ながら燃料として石炭が要る。それで、公式には禁止されていたものの、台湾が対外開放される以前の1840年代から、台湾北部のキールン港周辺での石炭採掘が、小規模ながら続けられていたようだ。

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 ここにロバート・スウィンホーという、当時の大英帝国の全盛期にあって、なおかつ進化論等に代表される自然科学や、生物学が大きく花開いた時代に、単に外交官としてだけでなく、特に動植物における研究者としても本国の学会等で注目を浴びるに至った、二十歳になるかならないかの領事館員付通訳が登場してくることになる。

 スウィンホーは英国の統治下にあったインド・カルカッタの英国人の家庭に生まれ、その後ロンドンのキングス・カレッジで語学等を学んだ後、外交官試験を受けて採用され、1854年、18歳のときには、中国語通訳として香港へ派遣されてくる。そして、翌1855年にはアモイ領事館への配属が決まり、アモイへ来てからも、閩南語習得に勤しむ傍ら、現地動植物の標本採集のためによく産地へ出かけていったようである。その翌1856年、若干20歳のときには、ヨーロッパの帆船の船体に、中国のジャンク船の索具(マストや帆桁、ロープ等を指す)を取り付けた船でアモイから台湾へ渡り、北部の山中にあるクスノキの原生林等を調査し、また自分のために動植物の標本も収集したようである。このとき台湾はまだ外国人の渡航が許されておらず、おそらくは密航だったと思われる(山地の原住民や客家人等にも、おそらく官吏の支配が行き届いてなかった)。

 その後、1860年の天津条約を受け、スウィンホーは「駐台湾副領事」の肩書きを拝命して、当時の台湾の行政の中心地であった台湾府(現在の台南)にやってくる。しかしながら、安平港の水深が浅いことや、官吏の対応がよくないこと等を理由にここに領事館を開設することは諦め、まずは北部の淡水港へ向かい、領事館の設置地点として、17世紀にスペインが建て、その後一時期オランダが占領していた、淡水港を見下ろす高台の上に建つ「紅毛城」を(「紅毛城」の名は、その昔オランダ人を指して、紅毛人と言ったことに由来する)借り受ける約束を取り付け、港内に停泊させた英国商船を臨時領事館として、清側が紅毛城を引き渡すのに必要とした1年を待った。その間に北部台湾の輸出に適した産物を調査して回り、その一環として、木柵の農民が自家用に栽培していたお茶のサンプルを採取して、本国に送ったりしている。そのとき本国から寄せられた評価では、茶葉の製茶工程に難があるというものだったが、その後の台湾北部における「台湾茶」の発展にとって、貴重な第一歩を記している。

 淡水での領事館開設が済むと、領事館業務は助手に任せ、自身は一旦帰国後、1864年タカオへ向かい、今度はタカオでの領事館設置と税関の開設に携わる。ちょうどこの時期は、中国本土の華南地区において「太平天国の乱」が吹き荒れた時期で、英国もそれまでの中国からの茶葉の一方的な輸入に区切りを付けて、茶樹をインドやセイロンの山地に移植して、新たな生産地とする試みを初めた時期でもある。またこの時期の、英国からの主要な輸入品はアヘンで、従ってタカオでも英国商船に載せて運ばれてくる商品の多くはアヘンだった。

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 淡水のときと同じように、初めは港内に停泊させた商船を臨時の英国領事館として使用し、その後、当時タカオの町の中心があった旗津の、港湾を挟んで対岸側にある哨船頭(現在のハマセン地区にほど近い)の陸地に領事館を構えるが、当時大きな成長期を迎えつつあった英国商社の「天利行」(Messrs. McPhail & Co.)が、1865年より英国領事館の上の高台に、自社の現地支店としての使用目的で、英国の工兵を動員して洋館を建て始める。しかし翌1866年に、当時このように中国へ進出していた英国商社への融資を主に担当していた、ロンドンのOverend & Gurney Bankが突如倒産し、「天利行」もその煽りを受け、翌1867年に倒産(この金融危機は、「天利行」のみならず、また欧米系・中国系を問わず、様々な商社に悪影響をもたらした)、洋館は別の英国商社に買われ、この商社は領事館とリース契約を結んで、このタカオ港を一望の下に見下ろす高台の洋館は、駐タカオ英国領事の公邸として使用されることになった。スウィンホー自身は前年の1866年に駐アモイ領事を拝命し、台湾開港の初期の重要な人物でありながら、このときを最後に、中国本土のアモイ、ニンポー、そしてチーフー(芝罘;現在の煙台のこと)へと去っていった。動植物の研究の分野で貢献が認められ、王立地理学会の会員に選出されたが、1977年に病気のため、41年の短い人生を終えている。

第一章    史溫候

       台灣根據1860年簽署的《天津條約》的規定向世界開放。《天津條約》是第二次鴉片戰爭(也稱為“亞羅號戰爭”)後,清、英、法之間簽署的條約。該條約修改了自1842年《南京條約》以來實施的“五口貿易”(在廣州、廈門、福州、寧波和上海開設五個港口之對外貿易方式),並另再開放了大約十個新港口。這十個港口中有兩個在台灣(北部的淡水和南部的安平)。實際上,除了這兩個港口之外,在北部和南部還有兩個港口(雞籠和打狗)也要作為這兩個港口的輔助港口並對外開放。

  當時,英、法等西方大國之所以注意到台灣,主要不是因為後來引起更多關注之台灣在地理戰略中的位置,而是單純出於台灣生產的產品。這些產品之一是樟腦,它是一種從樟樹中提取的精製樹脂。 後來,在1870 年代,樟腦作為製造賽璐珞和無煙火藥的原料,也為德國的工業化提供了幫助。另一種產品是煤。

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  福建省位於台灣海峽對面,自第一次鴉片戰爭後的“五口貿易”以來,五個港口中有兩個(福州和廈門)和外國人定居點。 然而,由於山地地形和交通發展困難,地下自然資源非常稀缺。汽船的運行自然需要煤炭作為燃料。因此,儘管官方禁止,但自1840年代以來(台灣對外貿易開放之前),台灣北部雞籠港附近的煤礦開採似乎仍在繼續小規模發展。

  此時,羅伯特·史溫候(Robert Swinhoe)---不僅是英國外交官,後來在他本國的學術學會中也受到不少關注的動物學以及植物學之著名研究者,當時才只有二十歲並在領事館當翻譯人員---出現於這個歷史。史溫候生活的那年代是大英帝國最為鼎盛時期,也是自然科學和生物學正處於最蓬勃發展的年代(當時達爾文式進化論的流行可能也代表該時代的背景)。

  史溫候出生於英屬印度加爾各答的一個英格蘭人家庭。在倫敦國王學院學習語文後,他通過了外交官考試並被錄用。1854年,他十八歲時被派到香港,擔任中文翻譯。然後,1855年,他被分配到駐廈門的領事館。來到廈門後,在學習閩南語的同時,他經常去山區收集當地動植物的標本。第二年,即1856年,他只有20歲時,他從廈門利用一艘在歐洲帆船的船體上安裝中國戎克船之索具(桅杆,大樑,繩索等)的船到台灣,並調查了北部山區的樟樹原始森林,並為自己收集了動植物標本。當時台灣還沒有開放給外國人旅行,所以這次旅行可能是偷渡行為(清廷官員對山區的原住民和客家人可能沒有直接控制)。

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  此後,根據1860年《天津條約》的規定,史溫候被任命為“駐福爾摩沙副領事”(起初尚未建立“領事”一職)並來到當時的台灣行政中心台灣府(今 台南)。但是由於安平港水深淺,加上地方政府官員的反應不佳,他放棄了在台灣府開設領事館的計畫,而前往北部的淡水港。史溫候與清廷官員達成協議,將“聖多明哥城”出租為新領事館的所在地。該城堡建在俯瞰淡水港口的山丘上,最初由西班牙人在十七世紀建造。後來,有一段時間被荷蘭人佔領(這座城堡的中文名稱是“紅毛城”,因為當時人們曾經用“紅毛人”來稱呼荷蘭人)。 史溫候用一艘英國商船作為臨時領事館,並等待了整整一年清廷官員為準備移交需要的時間。 在這一年中,他在台灣北部調查了適合出口的產品,並在此過程中,他收集了木柵之農民為自家使用而種植的茶葉做為樣品,並將其送回他的本國。根據從本國收到的評估說,茶葉的加工不是很好,但是它為台灣北部“福爾摩沙茶”的後續發展留下了寶貴的第一步。

  在淡水開了領事館後,他把領事館的工作留給他的助手,回倫敦之後,他於1864年前往打狗,這次他參與了在打狗建立領事館和海關的工作。當時是“太平天國”發動於中國大陸之華南地區的時候,也是英國以將茶樹移植到印度和錫蘭的山上並建立新的茶產區的方式開始嘗試逐步停止從中國進口茶葉的時候。這段時間,鴉片是從英國進口的主要商品,因此,英國商船搬運到打狗的大部分產品也是鴉片。

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  就像他當時在淡水建立領事館的方式一樣,史溫候用一些商船作為臨時領事館。然後,他在哨船頭的土地上建立了新的領事館(位於目前的哈瑪星地區附近,該地區位於當時的打狗市中心所在的旗津島隔海相望的對岸)。當時,一家英國洋行《天利行》(Messrs. McPhail&Co.)即將進入大規模發展時期。通過動員來自上海的英國工兵,他們開始在英國領事館上方的小山頂建造西式建築。但是,在1866年,倫敦的Overend&Gurney銀行突然破產,《天利行》也受到其影響並於1867年破產(當時該銀行是在中國擴張之英國貿易公司最大的貸款銀行之一,此舉金融危機不僅對《天利行》造成負面影響,而且對許多當地的西方和中國貿易公司造成了巨大的影響)。英國領事館上方山頂上的西式建築被另一家英國洋行購買,並且該洋行與領事館簽訂了租賃協議,因此這棟俯瞰打狗港的建築物後來用作為英國領事在打狗的官邸。然而史溫候於1866年被任命為廈門的領事。雖然,他是台灣開放初期的重要人物,但後來他在廈門、寧波、芝罘(現在的煙台)等地服務。這幾乎是他在台灣生活的最後一天。為了表彰他在動植物研究領域的貢獻,他當選為皇家地理學會會員,但1977年因病去世,享年41歲。

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