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疎外感とまではいかないけどアウェイ。

 ふるいデータから、掘り出した昔作ったグラフィックス。何かわからない抽象性。これを作っていたときの孤独感を思い出す。でも、孤独だと思っていたのは自分だけで、心をとじていたのだなと今なら思う。

 それらを見ていてふと、これまで感じたことのある疎外感、というか気がつけばアウェイ?を感じた時と場所がひらひらっと思い出された。

初めて誘われたお食事会で

 長らく東京に暮らして、その後大学に戻るため、久しぶりに学生時代にいた街に戻った時、全く友人のいなかった私にいくらか誘ってくれたり紹介されたり機会があった。自分としては孤独を感じていたわけではなかったけど、特に先入観もなく参加してみた集まりがいくらか。その時に月に一回集まろうみたいな、お食事会なるものに誘われた


 参加にあたって資料を作ってきてねと。何やら発表するそうで・・・。内容がよくわからないままに、とりあえず資料を作って行った。

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 当日、他の人の話を聞いて、自分も話をして。
 そして、完全に、アウェイな内容だった。(と、自分では思った)


 他の人たちの資料は、
 綺麗な写真が綺麗に並ぶ
 人にわかりやすい
 目的と方法など資料そのものの構成が明快
 そして何より、社会的。

などなど・・・そもそも資料の質が全く違う。
今見ても、私のはメモ。

その後、私は確かその会には参加していない(ように記憶)。

 そのとき感じた疎外感(アウェイ感)は、別段、ネガティブなものではなかった。単に、ちょっと違うな・・・っていう違和感だっただと思う。だからそのあと参加しなかったか、もしくは早々に行くのをやめたのは全然角も立たなかったし、自然な流れだった。

一番好きな場所で感じた疎外感

 このときの感情はずっと心に残り続けていた。今でも思い出すとなんだか胸がチクっとする。

 それは色々なことがあって、長年一緒にスキーをしていたメンバーと久しぶりに一番、好きな山へ行ったときのこと。
 しかし、私は友人たちに以前のようについて行くことはできなかった。道具、行動様式、意思決定、etc.... 旅の間じゅう、置いてきぼりの気分を味わった。会話に、行動に、入れなかった。それでも、やっぱり嬉しかったし、むしろ喜びや感動の方が大きい旅だったことは確かだった。

 もしかしたら思い違いかもしれない。

 あるいは、それはかすかな悪意だったかもしれない。(もしそうだとすると、それには理由となる過去も何となく思い当たる。)

 もしくは単に、私以外のメンバーが作り出していた彼らなりのリズムに入っていけなかっただけなのかもしれない。

 理由はどうあれ、真っ白い世界の中で感じていた疎外感は、今でも記憶にはっきりと残っている。そのときに撮った写真を見ると、耳に残る風の音と共に、より鮮明に思い出してくる。写真は、撮影した人にとっては、撮ったときの気分も一緒に映り込んでいるものなのだと思う。

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(もちろん、その後は色々な変化の中でそういうことはなくなったし、今ではもっとも平和に滑っている。)

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