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犠牲的な、間違った愛だった

 今日、フランスに向けてこの数週間の間かき集めた古い書類を、送った。国内を出るまでに二週間もかかるとのこと。

 それは、離婚関係の書類。ずいぶん昔に離婚したフランス人の元夫は、いまだに離婚手続きをフランス国内でしていなかったらしく、最近になって急に、大急ぎで離婚手続きをしたいので書類をすぐに集めて送ってくれ!と勝手なメールを送ってきた。

 正直、「はあ?」と思った。何をいまさら。あいにく、コロナのせいで大使館は動いてなく、フランスの役所も色々しまっているそうだ。日本の役所は動いているみたいなので郵送手続きであちこちから書類を集めたものの、あの頃から引っ越しを繰り返してもいるし、日本での離婚から8年も経っているので、書類そのものが破棄されていたりしてかなり苦労した。

 以前なら、そんな風に理不尽に急かされても、私のせいだ、とかなんとか思って急いで書類を準備しただろう。書類を送ってくれという身勝手なメールをもらってすぐに、まだか、まだか。と急かすメールも来た。正直、よくこんな人と一緒にいたなあ・・と逆にしみじみしてしまった。

 彼は、病気だった。そのせいで、私は彼の人生までをも背負う覚悟をしていて、実際私が看病というか通院を事実上はしつつ仕事もしつつ、東京のど真ん中で高い家賃を支払って暮らしていたことがあった。本当に貧乏だった。

 そのころは私が彼を支えてなんとか生きていくんだ!という、今思えばかなり間違った正義感を日々のモチベーションにして生きていた。

 けれど、それは明らかに間違っていたので状況は良くなるはずもなく、最後にどんでん返し、幕が下りたのだった。

 その頃のことを書けば一冊の本さえ書けそうに思う。

 何が間違った正義感だったのか?と思う人もいるだろう。病気の夫を支えて生きて何が悪い・・・?

 でもあるとき強く気づいたこと。他人の人生の責任を取るのは間違っている。と。それは究極の傲慢だと。私は彼と暮らしながら、彼を支えながら、家賃を払い、ご飯を作り、全てをやっていた。それは偽善者だった。それは、「あなたは自分の人生を自分で生きていけない、ダメな人なんだ。だから私があなたの人生をなんとかする。」と本人に、言い続けているのと同じだということだった。あなたはダメだよと毎日突きつけられること。私はあなたのために、私の人生を犠牲にしているんだよ?と毎日愛する人に言われたとしたらどう思うか、考えてみるといいと思う。これほど哀しく辛いことはないだろう。

 ちなみに・・・誤解しないでいただきたい。寝たきりとかではないですから。そういう病気じゃないですから。その種の看病ではないんです。そう思うに至る状況だったということ。

 人としての最大の自由は、その人がどんな人生であれ、自分自身が責任を取ること、自分の人生を生きること。人の人生を他人がコントロールしないこと。それは最大の尊厳ではないか?・・・究極的には、路上でのたれ死んだとしても。

 私は愕然とした。これは愛じゃない

 そのことに衝撃的に気づいた時から、八方塞がりだった私の人生は突如、新たな方向へと、自動的に動き出したのだった。 


 それにしても、今日6月30日は、「夏越の祓え」という日だそうで。それは、この半年の禊を落とすという意味があるらしい。

 半年の禊ではないけど、こんな区切りとしては良き日に、書類を送ったなと思う。






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