昨日の恋

浜田光夫さんが、葛藤を隠して笑顔を見せている演技の時のその筋肉のこわばりが素敵だ。吉永小百合さんとのコンビで描き出される青春は、私の目指していたものである。ただ、高校生活がもう記憶のものとなった今では、もはや夢希望に胸を高鳴らせて妄想してみることは虚しい、したがってそんな行為はしない。高校時代は過去のことだが、まだ割り切って笑い話にできるほど過去のことではなく、当事者意識が抜けないから私の場合辛いのだ。だから、私にとって高校時代を記述することは禁忌なのだ。心に悪いの。そうなのである。まだ青春を創り出すことは、私にできるのか?そう思って、吉永小百合さんの可愛い笑顔と浜田光夫さんのくすぐったい笑顔を苦虫を噛んだような鼓動を動力に、思い描く。浜田光夫さんみたいな素敵な青年は、私の青春に現れなかったが、でもどこかで見た記憶がある。そう思って天糸を辿ると、なるほど、小学生の時の友人が似ているんだ、と気づいた。
そう認めたらあとは、映画よりあっという間に進むのが私の恋だ。
夕ご飯の前に、写真で確認してみてもやはり似ているのを担保に温存しておき、寝る支度を済ませて暖かい毛布の隙間を満たしたら、素敵な記憶と空想が部屋の白い壁を銀幕に見立てて上映されるのだ。
最後の交流が小学生の時なのがよかった、キャンバスは曇り空のように無垢だ、自由に彼を美化できる。
とりわけ仲が良かったわけでもないが、複数人で遊んだことが幾度かあるのも幸いした、赤い糸が凧糸ほど強靭でなくとも、確かに紡いではある状態なのを前提とできる。
昭和の夕焼けみたいな常夜灯の下、多分彼は私を嫌いでは無かっただろう、という結論のため、だいだい色の千切れ雲をこねて丸めて援用する。きっと、嫌いではない。
友達に相談しよう。
そして彼に会う約束を結ぼう。
この前の冬に見つけた喫茶店に一緒に行こう。
もう彼だけが、探し求めた運命の人なんだと信じた。
恋愛の格言のありきたりな文言が、この上なく励ましとなる。
傍のフレンチポップの好みの発音が鼓膜を磨く。幸せ、恋、愛、若さ、青春。手に入れたも同然に、心が踊ってしまう。
脱肉化したくないから、言葉に書き起こしたくない。
温まったら冷めるだけ。冷たい鉄骨のようなイヤホンのコードが頬に刻まれる。
問題は、明朝の窓ガラスの水色の空を飲み込む時分にも、このときめきが、持続しているかだ。浜田光夫さんは映画を見ればいつでも会えるが、彼は会えるかすら分からないのだ。浜田光夫的なものを求めるなら、浜田光夫さんを求めた方がいいのだ。私の町を歩いても、現代の青春しか探せない。

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