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夏休み1

 夏休みに入ったけど、設定してたより唐突だったしその割には非夏休みとの境目がぼやけ過ぎている。夏休み突入といえば、頭の中では、友達と一緒に勉強関連の品々を頭上に放って一目散に暑い日差しの下に駆け出す、というどこかで何度も見たような光景を予想していた。でも、今こうやって薄い水色の、本当の薄い水色が少しだけ白の中からはみ出ている空を見上げながら、座って呼吸をしている。現在、朝のまだ透明な時間。6畳一間のアパルトマンの部屋を見つけたら、ベランダもない上半身を乗り出せる程度のガラスの覗き板の中をこっそり確認すべきだ。重力に口角が一ミリくらい下げられたシャワー浴びたてだけど髪は生乾きの少女が見えるだろう。
 夏休み、というと変に意気込んでしまうのが癖だ。小学生の頃から、人一倍夏休みに対して熱を込めて計画を立てていた。夏休みは孤独の始まりで、時間の流れに直接手を触れることのできる期間である。これまで何回の夏休みを経験してきた身から言わせて貰えば、計画を立てる段階が一番楽しくてあとは、ひぐらしが姿も見せずに鳴き始めた時に夏休みを自覚し、そしてそれはもう終わりの印なんだ。夏休みは遊ぶのもいいかもしれないけど、基本的に孤独だった。同じ話を繰り返すテレビをつけて、ベタベタするフローリングの上で何かする。大義そうに目だけ開けておはようをいう犬様と散歩に行くにしても、夕方を待たなければいけない。夕方に家族が帰ってくるのを待つ。一体、待ってばかりの1日だった。

 ふと、もう一度空の色はどんなものかと確認してみれば、もう水色の中に小さな白い細い浮き小島がいくつか据えられている模様である。ずっと目を向けていたのにいつのまにか空はこうなっていた。正直、この部屋にはテレビがないから何か変化を見続けていられるものといったら空しかない。青磁色に塗られた窓枠が気に入っている。雨の日も風の日も、この枠の中から外の様子を監視している。フローリングに舞い込んできてしまったような座布団に腰掛けて、この窓枠の可愛いらしさにうっとりすることも飽きて、髪を乾かすことにした。まだ朝の透明な時間からはみ出さずに支度ができるだろうから。引き出しの中から取り出されたドライヤーが大きな音を立てているうちに、今日の予定は完成した。ひとまずクリーム色の地に目を凝らせば風鈴が見える浴衣を着て、紺色と茶の市松模様の帯を締める。その上に帯締めや帯留めで賑やかにして髪の毛はポニーテールにする。そうした出立で向かったのは、いつもの河川敷だった。

 この秘密基地という体で誰にも開かれた川辺の線は、この青磁色の窓枠から20分歩いたところに引かれている。あんまり日差しが鋭いので日傘の下に入ったけど、本当はこの浴衣姿を隠蔽したかった。20分はすぐすぎるようで、アスファルトという応答のない無言の地面を行くには少し長い。履き慣れない桐下駄や草履、無言の圧を直に伝えるビーチサンダルでは、浴衣の足元としては似つかわしいけど、身体には不都合だと思っていつものスニーカーを履いてみた。でも、これでは浴衣姿の少女ではなくて、浴衣にスニーカーを履く踏ん張りのなさを掲げるような心地がして、おとなしくビーチサンダルに履き直した。
 気に入っている商店街も今はまだ準備の熱気が湧き始めた頃で、それはいつもの通りを見慣れた通行人には寂しさを思わせる慌ただしさだった。まるで、仕事中の大人に構ってもらえないみたい。いつもの八百屋の店主さんに、どれくらい軽やかに話しかけることができるか、そんな日はいつくるのか、そう思いながら今日もひとまず挨拶の音声は流した。時々食べるケーキ屋の厨房の方のガラスの中では、ボウルの中に美味しそうな生地が入っている。ホットケーキの生地を焼く前に食べる美味しさと注意される決まりきったお菓子作りのひととき。郵便局のATMの文字は今月の電気代が少し高かったことを記した家計簿を脳内でめくった。小学生の頃はエアコンより扇風機を多く使っていたけど、最近はエアコンをかける実家。まだ人気のない文房具屋のガラスには、欲しくなるレターセットが見える。鍵付きの日記帳が欲しい。ところで、この文房具屋には自力で店内を見て回った様子だと蝋の塗ってあるガリ版に使う紙は見当たらないようだった。この夏のうちにガリ版をやってみたいと思って、見よう見まねで用具を揃えるつもりでいる。そうしたら、家の中でガリガリと音をさせながら友人に送る自分の近況がわかる紙片が簡単に大量に作れるのではないかと楽しみにしている。ところで今日食べる肉はあったから安心だけど、たまにはこういう精肉店で笹の葉に包んでお肉をもらうのもいいと思う。鶏もも肉を今日は照り焼きにして、茄子は素揚げして醤油と出汁と生姜で食べようと思っている。

 河川敷へ降りる階段に浴衣が擦れないように、しゃなりしゃなりな雰囲気を出してしまうのが照れ臭かったので、最後の2段は跳んだ。

台所

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