夏休み 2

 河川敷に降り立った浴衣姿の少女は、夏のさえた色の緑と水色の中に突如咲いた大きすぎる一枚の花びらあるいはじっと街を見据える小さな雲だ。

 この河川敷では、今白い浴衣が不安げに立っている階とそのもう一つ下に段があって、下の方で川の水を目の当たりにすることができる。中二階と今いる所を名づけるとすれば、川の水を描きたい場合一階に降りなくてはいけない。この中二階の草っぱらは朝露からなんとなく水気を蓄えていて、ビーチサンダルをうずめながら歩めば足の甲からもしかすると衣服の裾までひんやりとさせられる。それに、まだ目覚めていない虫たちを足音で叩き起こして怒りを買うかもしれない。
 この場合、後者の方が気がかりだった。自分が驚かせた虫に、今度は自分が驚いて声も出ないまま肝を握り締められたような心地でその場を走り抜けなくてはいけない。こうして、足元に目線を送って一連の流れを予想していたが、自分が歩いていく道筋に沿って目を動かした。眉間に寄っていた皺が押し上げられて、まぶたの血流が促進されるような気がして、そのままの勢いで前のめりに歩き始める。ところで今日はどんな絵を描くか、いつもと同じ場所から同じ目線で景色を描くのもいいけれど、水がはじける所の動きに集中して描き起こしてみるのもいいかもしれない。動きあるものを描き留めようとすると、やっぱり景色には本来ない線とか色が加わってしまうのをどうにかできないものかと考えていた。写真みたいに切り取るわけじゃないんだそんなの当たり前でしょう、という見えない声が聞こえる。でも、無いものを意識的に加えるときは描いているものを超えた意味をくっつけたいの、と動かぬ声で反論する。ああ、芸術って心が豊かになりながらすり減ってゆく。だからいつも同じ形の心に見えてしまう、本当はこねくり回して大きく変化しているのに。

 若干の水気を帯びたビーチサンダルも、アスファルトの上に捺印してみれば2、3個の勾玉しか作れない。この時間が経つとなかったことになる通行許可の印をもって、一階部分に下る。アクセサリーとかビーズを区分けする箱のように正方形に仕切りのついたアスファルトが斜めに立てかけられているところを、駆け下りはしない。ビーチサンダル一歩下ろしたときの地面とサンダルの間に散らばった砂を体重でするのを確かめるように降りる。耳はこの地面と、周囲に向けられて、目は何も踏まないように据えられる。膝に力を込めて決して転げ落ちない。最後の正方形を過ぎたとき、小さく跳んだ。いよいよ水辺にやってきたが、虫除けスプレーをまんべんなく肌の出ている部分に吹きかけた。それでも知っている、ふらふらと顔の周りを飛ぶ小虫はこの匂いに関係ない。それでも、家に帰ってショートパンツになったとき、赤くなった点をかきむしらなくて済む。
 
 一度通り過ぎようとした自分の特等席に戻ってレジャーシートを広げて座ってみる。景色が気に入っているというより、何回も描いたから気に入った。それに、ちょうどいいのだ。
 秋冬春と変化する河川敷がスケッチブックに残っているけど、もし人に見てもらったら季節の違いは読み取ってもらえるのだろうか。描いた本人は、絵に誘われて当時の景色を思い出すつもりでも、実は景色そっちのけで描いていた時の自分のことを思い出している。寒かったから厚着をして来た、夜明けの川を見てこんなことで悩んでいた、とか。

 今日は水の動きを描いてから景色全体を描こうと思う。

 汗でスケッチブックのページが手に貼り付いて持ち上がってしまう。ところで、日焼け止めは汗に流れてしまっただろうか?手についてはもう紙に吸い取られてしまったはず、体はまだ大丈夫かもしれないけれど。
 思えば浴衣の足元にも注意しなくてはいけない。

出来上がった水の動きを、少し顔から遠ざけて観察してみる。作者は何を描いたか判ろうけど、通りすがりの人に見せたら目の前の川に走る水とこの絵を重ねてくれるかしら。それでも今日は描こうと計画していたものに挑戦できてよかった。この後、河川敷の景色をも描くのは少し飽きてしまうことがわかっていたけれど、鉛筆で描きとり始める。夏のこの景色は絵にするのは初めてだった。秋は枯れゆくススキが対岸に見えた、冬は朝がまだ青かった、春は桃色の木が対岸を暖かく霞ませていた。夏以外の3つは、服を着込む。夏は、剥ぐ。薄い布だけで歩き出し、外の充分に熱せられた空気や太陽の強い光を信頼して体を温めることを頼む。あるいは家の中にいるときは急に冷たい空気が恋しくなってクーラーをかける。今日、どうして絵を描く人が白い浴衣と紺と茶の帯を締めて、帯締め帯留めまで付けてめかしこんでいるんだろう。浴衣は涼しいようで厚着である。夏以外の3つに着るには涼しすぎる。

 水彩色鉛筆は、混色するのが難しくてじっくり時間をかけないで色付けしてしまうと、色鉛筆そのものの色が引かれただけになってしまう。今日はそれを回避する。

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