Fの街 1

 今日は、出前を届けなくてはならないみたいだ。混んでしまってどうしようも無い。終わりの見えないほど客足の繁盛が店内を浸している。静かに凝り固まった書き割りみたいにすら見えてくる沢山のお客ちゃんたち。配膳して、勘定の処理、お水のおかわり、やる事は手に取るよりもわかりやすいけれど、頭ばかりが先に進んでいくから気づくと何も変わらない背景の中で自分だけが右往左往しているのだ。
 そんな中で、出前を届けるなんていい機会だ。店が、街から忘れ去られたあたふた劇場たることを自覚させてくれる外出ができるのだから。同僚の成清君があたふたとしつつも、届けるべき場所を確認する前段まではことを進めてくれたようだ。ありがとう。
 「届ける場所はここでいいって!時計台の下。わかりやすいから。」
 時計台とは一体どこだろうかと思案し始めるや否や、寒気と暖気が交わる時の断面図のように何か気味の悪いものにゾクゾクする予兆が滑り込んできた。時計台、確か、気味の悪い時計台だ。関わりたくないという意識がこれまで強すぎて、この街に暮らしているのにも関わらず個人的に封印してきた対象なのはわかった。
 「それ、どこにあるの?」
 出前をする身として、社交辞令で口にしたこの言葉である。
 「えっとね、駅前にあるんだけど。俺詳しい道順はわからないから少し調べよう」
 店の縁の下の力持ちであるタブレット端末を2人で覗き込んで、私がキーボードをタッチしようとする段になって背骨を冷水が遡ってきた気がして、一か八か阻止の声を張りつめさせた。
 「待って‼︎やめよう、調べるの。いやだ、ちょっと待って。調べないで‼︎」
 私は先を見越して、この画面いっぱいにか、はたまた小さな区画に時計台の気味の悪い図像が染み出してくる恐ろしさを予防したのだ。画面いっぱいに現れたら肝が縮むのはいうまでもないが、小さな区画で現れたらそれはそれで髄まで染みる恐怖となるに違いない。なぜなら、一時的に大画面の時計台から免れたと思わせて、ちらと横のはしがきを読もうとすると隙をついて小さな時計台の画像が恐怖を忍び込ませてくるのだから。現時点でまだおぼろげである私の中の図像が、画面に映されたものを目撃したことで確信の恐怖へと変わる。その刹那・変化の時間が、エネルギーを根こそぎ消費するのだ。それが一番の恐怖なのだ。
 「なんで?」
 店の回転を滞らせる私の不可解な熱意に困る成清くんに対して、「だって」という子供じみた枕詞のようなものを使ってたどたどしく訳を伝えようとしたのだけれど納得はさせられない。仕方あるまい。
 今日は嫌に空が黒い。曇り空用の雲をかき集めて濃縮したような、黒に近い灰色なのだ。ところどころ濃淡があり、かろうじて天板ではなく空であることが認識できる。ガラス壁の店は湿気で画用紙のように曇っている。もし今日のような黒い空の日に撮られた時計台の画像を不意に見てしまったらと考えるだけで腹を下しそうだ。白い文字盤部分が場違いに浮き立つに違いない。といった以上のことをまとめて彼に伝えたつもりではあるが、最終的に成清くんに出前の全てを任せるということを頼み込んで私はその場を即席で乗り越えた。

・・・

 店で働き終えた昼下がりは大抵訳もなく、家と反対方向の駅へ寄り道してから再度店の前を通って帰ることにしている。ATMでお金をおろすこと、神社に詣でたり何か買い食いしたりすることもなかなか街に住むことの醍醐味な気がしているのだ。しかし今日は、軽薄な究極の選択を迫られている。私は昨日までの私ではない。昨日までの物心なき私ではないのだ。時計台を知ってしまったからだ。駅に行くまで、心臓が静かでいられはしないはずだ。いつ不意に時計台が現れるかわからない。ふとした振り向きざまに目に映るかもしれないのだ。でも、もはや野放しにしておくのも衛生上よろしくはないという気持ちもあるのだ。この目で立ち向かわなければならない。今日でない他の急いでいる日に不意に出会ってしまうより、時間のたっぷりある今日に対峙しておくことは非常に計画的でよろしく思えた。それにここは街だ。人っこ一人いないような地面は少ないし、ましては人通りのとめどない駅前であるから案外怖いものでもないかもしれないという浅はかな安心も漂ってはいる。
 この問答を手早く片付けて、ズルズルといつもとなんら変わらずに駅の方へつま先を向けて進んでゆく選択をすると、案外期待の方が大きくなっていくのだ。ペイブメントにサンダルが擦れて、サンダルに染み込んでいた水分が暑い黒い空まで登ってゆくだろうか。街のビルヂングの壁をつたい滑って、するすると。
 駅前とは一体どこからどこまでを指すのか。この街に暮らしてもう不自由ないくらい理解が追いついてきているまでは経っているが、駅前はずっと謎の路地裏に溢れていると思い込んで今日まで過ごしていた。謎の路地裏があって欲しいと頑なに願い信じていたが、よくよく考えると私はもう駅周りの道、細い道も含めて、歩き尽くしたことをずっと自覚していなかった。粘土を広げて伸ばしていくようにして駅の改札から知っている道の糸筋を広げていくと、もう絨毯が完成してしまうではないか。
 このことに歩きながら気づき我に返って目を見開いてみると、もういわゆる駅前に到着している。じゃあ時計台はどこにあるのか?確実に知っている道にあるはずなのだが、わからない。たくさんの人が、たくさんの道に行き来している。この黒い空の下だろうとお構いなしだ。何度見上げてもこんなに黒くて不安げなのに、誰も彼も空を気にしてなんていないようだ。話し声は愉快そうで、でも片手にはしっかりと傘を携えているから、一応のところは今日の駅前も昨日と地続きの駅前なのだと確信できた。時計台なんてないのではないか?ちっとも知らないところなんて残していない駅前なのに、あんなに恐ろしいものがこの雑踏あふれる駅前に存在しているなんて。狐に化かされたような、街のみんなに欺かれたような気分になった。いらだちと切なさと可笑しさで一呼吸微笑んでから、せっかく来たのだからと託けて喫茶店に入って甘いものでも食べることにする。左の道へ出て上って行くのだ。
 時計台、でも出前は一体どうしたんだろう?疑問に思いながら喫茶店に近づく途中に、その疑問は簡単に解決された。時計台なぞ誰が呼び始めたのか、それは単に時計が見やすく掲げられているちょっとした広場だった。いつも自分もここで時刻を確かめるのに。

 じゃああのおぼろげな時計の図像はなんなのだ??

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