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創る練習を始めなければならない

子育てをしていると、子どもたちの創作活動に驚かされる。
長男には職業柄(夫婦ともに教育企業に勤めている)、読み聞かせを1万回やってみたのだが、子どもは、自分が使える言葉が増えると新たな組み合わせを創り出し始める。1歳9ヶ月ごろに撮った動画では「むかち、むかち、おさかなが、いました、んーー」と創作昔話を披露している。松谷みよ子好きの父と魚好きの息子を掛け合わせた結果とも言える。さらに意外だったのは、全く新しい表現を創り出したことだ。2歳ごろの夕食中、突如「やったーやったーやぼぼぼぼん」と満面の笑みで言い始めた。これを聞いた私は思わずGoogle先生で既出確認をしたほどだ。
いずれもセンスの有無は置いておいて、創り出して楽しむこと自体が人間本来の性であると感じる。でも自分を振り返った時、いつの頃からか創作活動をやめてしまっている。自分だけでは無いと思う。「創造力」は何やら高尚な雰囲気をまとっているバズワードで、社会人に求められる能力として長年筆頭に上がるが、経団連から教育界にOKサインはもらえない能力の筆頭でもある。でも実は、言われたことを忠実にやる事に対して賃金が発生する今までの社会では、それって当たり前であったのかも知れない。企業だって、個人が本当に好き勝手に創作したものなんて(ごく一部を除いて)いらない。その価値を測るモノサシを企業が持っていなければ、無価値に等しいから。あくまで、自社の事業を前提にした創造力を求めているのである。それは言われた事を忠実にやる以外の何ものでもない。その企業が持っているモノサシに合わせて創造しなければ価値がないわけだから。という事は求められているのは創造力の高さではなく、企業のモノサシに合わせる調整力や定義を知る解釈力、共感力といったコミュニケーション能力ということになる。創造力が必要と言いながら、実際は異なる力を評価しているわけだから、創造力育成に関して教育界と経済界はいつまで経っても折り合わないはずだ。かくして多くの勤め人にとって創作活動の経験は、待っていてもやってこない(創作せずとも食っていける)時代が長く続いたと言えるだろう。
ところが、ここ2,3年である。個人のパワーが急速に膨らんできたと騒がれ出したのは。インターネットの影響がどうのって、今更感のある解説を定期的に聞くようになった。例えば無数に存在する駄文の書き手と、それを名文と受け取るごく一部の読み手が、ネット上で出会い始めた。そこに今まで存在しなかった価値が生まれている。そういった事だ。企業が持つモノサシとのマッチングだけが、自分の創造力をマネタイズする唯一の方法では無くなった。
企業サイドでもこの4月、経団連の中西さんもトヨタの豊田さんも、終身雇用ムズいよねって言い出した。企業が「言う事やってくれてたら給料上げて雇い続けるよ」という、入社の時に発行した約束手形の不履行を宣言し始めたわけだ。そうなってくると、ハシゴを外されたのは私たち勤め人。タチが悪いのは、私たちは本来の意味で創作活動を行ってきていない事だ。創造力育成における厄介な特質は、帰納的な方法のみ結果が出る事である。冒頭の長男の例(誰も創造の方法論など教えていない)しかり、創造性を高める学校教育が確立されてない現状(多くの学校教育は依然として演繹的だ)を見ても明らかだ。つまり「創造力は何かを創造しないと育たない」という至極当たり前の現実が、今私の目の前にある。「やる気はやり始めないと出てこない」のと似ている。そして、自分の力で、誰が見ても価値あるモノを創り出す事が出来なければ、これからの社会では食っていくことができない。し、逆に創造力が高ければ、個人として価値を高めることが、よりやりやすい。子どもたちの成長に目を細めている場合ではない。
そして私は文章を書き始める。何かを創造しないと、創造力はついていかないから。そして私の創作ツールは、今のところライティングくらいしか無いから。価値の無い駄文でも書き続けなければ。最初は自分の考えの整理のため。やがては読み手を意識したライティングに移行していく。テーマはとりあえず、教育や子育て、働き方、そしてこれから始める「新しいこと」がメインになる。その中の文章に価値が付くか、別の価値が付きやすいテーマで書けるようになるか、はたまたいつまでも価値がつかない駄文のままか。最低でも、私の創造力は、今と同じか下がるという事はなくなるハズだ。

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